深層
*
ふと気が付いた時、私は真っ白な空間にいた。
右を向いても、左を向いても、上も下も前も後ろも、どこまでも果てしなく続く真っ白な世界。
「……私、今度こそ死んだの?」
ぽつりと呟いた言葉が、あたりに反響するように響く。
身体を見てみると、そこにはさっきまであったはずの怪我がなくむしろ身体が軽くなっているような気がする。
それがむしろ死にかけか死んだかのどちらかであり、ここは生死の狭間なのではないかと思い知らされたような気がした。
戻る道は、あるのだろうか。……わからない。
ひとまず歩いてみるけれど、周りの景色は何も変わらずに次第に疲れてしまって座り込んだ。
「……ゼノに、悪いことしちゃったな……」
目を閉じて、意識を失う直前のゼノの表情を思い出す。
私は大丈夫だと安心させたかっただけなのに、ゼノは苦しくてたまらないというような顔をしていた。
「私がゼノの立場だったら……私もああなるよなあ」
何が大丈夫なんだって。そんな大怪我してどういうつもりだって。無理しないでって。お願いだから自分のことだけを考えてって。周りのことなんて今はいいから、自分の命が助かることだけを考えてって。
「……ははっ、全部ゼノが言ってたことじゃん……」
それは全て、ゼノに涙ながらに言われたことで。
自分の立場がどちらになるかで、こんなにも考え方が変わるんだな、と。無意味なことを考えた。
もしここで死んだとしたら、今度は私はどうなるんだろう。
日本に帰れる?……いや、向こうでも死んでるんだから無理だよね。
「お母さんと隼人にも、もう一度会いたかったなあ……」
別れの言葉も言えなかった、自分の大切な家族。
そう呟いた瞬間、真っ白だった周りの景色がぐにゃりと歪む。
「え……?」
そしてその直後、今となっては懐かしさを感じる風景が広がっていた。
「ここ……私の……部屋……?」
そこは、私の実家にある、私の部屋。
ベッドと本棚と、雑に転がる古いメイク道具やヘアアイロン。擦り切れるほど読んだファッション雑誌に、読みかけの少女漫画。
自分が生まれ育った大切な空間が、目の前に広がっていた。
「何これ……どういうこと……?」
履いていたはずの靴が、いつのまにか無くなっていて。着ていた服も、よく部屋着として着ていたTシャツとショートパンツに変わっていた。
床に敷かれた毛足の長いカーペットの触り心地があの頃のままで、ベッドに落ちていた漫画に手を伸ばすとそれを持ち上げることができて固まった。
「母さん? そこにいんの?」
ふと、扉の向こうから記憶よりも低くなった声が聞こえてきて、目頭が熱くなる。
胸に込み上げてくる熱が呼吸を荒くして、立っていることがやっとなくらいに動揺が隠しきれない。
「あれ? 誰もいねぇな。なんか音聞こえたのに……」
扉が開かれて、そこから私によく似た顔が見えた瞬間、目尻から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「は、やと……」
「ったく、姉ちゃんの部屋も片付けろって言ってんのに……」
隼人はそう呟き、そのまま部屋に入ると私のベッドに倒れ込むように横になる。そして天井を見上げたまま目を閉じた。
「……やべ、まだ姉ちゃんの匂いする……」
……髪、染めたんだね。金髪なんて、そんな派手にしてどうしちゃったの。……でも、よく似合ってるよ。
「片付けれないよなあ……まだ、姉ちゃんどっかで生きてそうな気するもんなあ……」
グッ、と。心臓を鷲掴みにされたように痛みが走る。
そうだよ。私はここにいるよ、隼人。
そう伝えたいのに、私の声は届かない。
あれからどれくらいの日にちがたったのかはわからない。だけど、確かにこの部屋にはまだ私の生活が残っているような気がした。
「隼人? あんたそこで何を……」
「……母さん」
突然、後ろから声が聞こえてまた固まる。
「母さん知ってる? このベッド、まだ姉ちゃんの匂いするよ」
「……」
「クローゼットの服も、多分まだ匂い残ってるんだろうな。……なんか、姉ちゃんが近くにいるみたいでホッとする」
「……そうね」
ゆっくりと部屋に入ってきた気配はするのに、振り向くことができない。
「片付けなきゃとは思ってるけど。……それでも、いつか莉子がふらっと帰ってくるような気がしたら、なかなかできないのよね」
慈しむような、そんな切ない声が隣から聞こえて、息を呑む。
そのまま私の前に立ったお母さんの後ろ姿は、すごくすごく小さく見えた。
「お、かあ、さん……」
「ん? 隼人、今呼んだ?」
「ううん、呼んでない」
「……そう」
思わず口に手を当てて言葉を飲み込む。
「お、お母さん……」
もう一度呟いてみると、
「……莉子の声が聞こえたような気がする」
お母さんはそう言って、部屋を見渡すように振り返った。
「お母さんっ……」
なんだかシワも白髪も増えたね。少し身長が縮んだ?心配かけちゃったよね。迷惑かけてごめんね。
言いたいことがたくさんあったのに、いざその姿を目の前にすると
「お母さんっ」
と呼ぶことしかできずに、涙がこぼれ落ちていくだけ。
「なんだよ、姉ちゃんは俺のことは無視かよー」
ベッドの上で不貞腐れたように呟く隼人に、
「隼人っ、隼人!」
そう呼びかけてみると、
「ははっ、なんか本当に姉ちゃんの声が聞こえたような気がしてきた」
そう言って、お母さんと笑い合う。
「……さ、ご飯にしましょ。隼人、手伝いなさい」
「はいはい。今日のご飯何?」
「……オムライス」
「んだよ、姉ちゃんの大好物じゃねーか。俺姉ちゃんが作るカレーが食べたいんだけど」
「無茶言うんじゃないの。ほら、行くわよ」
二人はそのまま部屋を出ていく。
足を踏み出すと、ついていくことができて。
私は、二人で並んでキッチンに立ち、ああでもないこうでもないと喧嘩をしながら私の大好物であるお母さんのオムライスができていくのをずっと見つめていた。
出来上がったオムライスを小さなお皿に盛り、お母さんがダイニングではなくてリビングの奥に進んでいく。それについていくと、仏壇に私の遺影が飾ってあった。
「莉子。お腹いっぱい食べなさい」
「っ……」
それだけ言ってオムライスをお供えしたお母さんは、笑顔で戻って隼人と一緒にオムライスを食べる。
この家で暮らしていた頃、私がいつも座っていた椅子に腰掛けてみる。そして二人が食べながら私の思い出話をしている姿を眺めた。
「そういえば聞いた? あの時姉ちゃんが守った子どもたち、全員退院したって」
「うん。聞いた。莉子もホッとしたんじゃないかな。命懸けで守った子たちがみんな元気になったんだもの。自分の娘が誇らしいわ」
「だな。やっぱ姉ちゃんはすげぇよ」
それを聞いて、心の中でずっと引っかかっていた棘が、綺麗に抜けたような気がした。
……そっか、あの子たち、助かったんだ。良かった。本当に良かった……。
「姉ちゃん、あれだけの良いことしたんだから、生まれ変わってるよな」
「さあね。でも、莉子のことだから隼人のことすごく心配して成仏できてないかもしれないわよ?」
「あぁ……それはある。姉ちゃーん。そこらにいるんなら俺のことはもう心配しなくていいよー」
笑いながら天を仰ぐ隼人に、私は泣きながら笑ってしまう。
その後もずっと二人は私の話をしてくれていて、その声を聞いていると心が洗われるような気がして幸せを噛み締めた。
私が急に死んでしまって、二人のことをすごく心配していた。だけど、二人はやっぱり私の大好きな家族そのもので。
「さ、姉ちゃんにこれ以上心配かけねぇように勉強するわ。母さんも早めに寝ろよー」
「わかってるわよ。無理はしすぎるんじゃないよ」
「はいはい」
ひらひらと手を振ってリビングを出ていく隼人を見送り、家事を終わらせて部屋に戻っていくお母さんを見送る。
声が聞こえなくても、存在を認識されなくても。確かに私はここにいて、二人の中で今も生きているんだと思えた。
「お母さん。隼人。ありがとう。幸せになってね」
心からそう呟いた時、目の前がまたぐにゃりと歪む。
そして、さっきの真っ白な空間に戻ってきていた。




