悪夢
——それから数日が経過したある夜のこと。
「リコ?」
「……ん? どうしたの?」
一人厨房に残って仕込みをしていると、水を飲みにきたゼノが私の顔を覗き込んでくる。
「……なんか、顔色悪くねぇか?」
「……え?」
顔に穴が空きそうなくらいじっと見てくるから、
「近い近い……近いよゼノ」
手を顔の前に出して一歩引けば、ゼノは
「……悪い」
とスッと身を引いてくれる。
「にしても、やっぱ顔色悪いぞ。具合悪いのか?」
「……ううん、昨夜嫌な夢見ちゃって、ちょっと寝不足なだけ。今日は早めに終わらせて寝るよ」
それだけ言って逃げるように仕込みに戻ると、ゼノはしばらく黙ってこちらを見つめた後に
「……無理はすんなよ」
自室に戻っていく。
その姿を目で追いながら、見えなくなった瞬間に深く息を吐いた。
「……バレてない、よね?」
呟きながら、少し休憩しようと椅子を腰掛けた。
さっきはゼノに昨夜よく眠れなかったと言ったけれど、本当はもう何日も満足に眠れていなかった。
そう、馬車の事故でトアくんを助けて数日してからだから、もう半月ほどになるか。
ベッドに入った瞬間は気絶するかのように眠るのに、ほんの数時間で目が覚めてしまうのだ。
その原因は夢を見てしまうからで。その夢は、私が事故に遭ったあの日の夢だ。
子どもたちを連れて信号待ちをしている私と、迫り来る暴走車。
悲鳴を上げる子どもたちと、必死に両手を広げて守ろうとした自分。
夢の中で何度でも死んだ。何度でも両手を広げた。そしてその度に思い出してしまう、その瞬間の恐怖と痛み。
トアくんと同じだ。目に見える傷は無くても、心に負った傷はなかなか癒えてはくれない。
夢を見るたびに、両手を広げることが怖くなるんだ。あの日当たり前のようにできていたことに、恐怖を覚えるようになってしまったんだ。
死ぬことが怖い。死にたくない。だけど、子どもたちを守りたい気持ちは本物で。
だけど、躊躇してしまうようになった。それが一番怖い。
もう一つ気がかりなのは、その子どもたちのことだ。
私はあの日、死んでしまった。だけど、子どもたちは?
私は勝手に守り抜けたと思っていた。いや、そう思いたかっただけなのかもしれない。
だけど、本当はそうじゃなかったとしたら?もし、守れていなかったとしたら。
命は助かったとしても、取り返しのつかない怪我をしていたとしたら?もしかして、ずっと眠ったまま目を覚ましていなかったとしたら?
別の世界にやってきてのうのうと生きている自分。だけど、あの子どもたちだって大きな心の傷を抱えているんだ。
それなのに、私だけこんなことをしていていいのだろうか。
そもそもどうしてこうやって生きているのだろうか。死んだはずではなかったのか。
私は、ここにいてもいいのだろうか。ここで笑っていて、本当にいいのだろうか。
考え始めたら、どんどん気持ちは沈み始めて戻ってこれない。その沈んだ気持ちがさらに夢を色濃く鮮明に映し出してくるから、いつしか眠るのが怖くなっている私がいた。
またあの夢を見たら。またあの日の子どもたちの悲鳴を聞いたら。
今度こそ、私自身が壊れてしまうような気がして。恐怖に負けてしまいそうで。そのまま、目を覚ますことができないような気がして。
両手を広げることが、もうできなくなってしまいそうで。
どうしようもなく、怖いんだ。
それでも、ゼノに顔色が悪いと言われてしまった。見たらわかるくらいに酷い顔をしているんだろう。
このままじゃ、またみんなに余計な心配をかけてしまう。
ちゃんと眠らなくちゃ。楽しいことを考えて、おいしいもののことを考えて。
そうしてぐっすり眠って、それで……。
「っ……」
ダメだ。どうしてか、涙が溢れてくる。
胸の奥で渦巻いている不安の芽が伸びて、私の心をぎゅうぎゅうに締め付けてくるような。そんな感覚に押しつぶされてしまいそう。
「だれか……たすけて……」
心の奥底からぽつりと漏れ出た、弱い気持ち。
一度心に綻びが生まれてしまえば、そこから止まることを知らずに漏れ続ける。
自分の膝に顔を埋めて必死に綻びを治そうとするけれど、それは無理で。
「だれかっ……」
とめどなく溢れる涙に、もう無理かもしれない、そう思った時。
「——だから、無理すんなって言っただろーが……!」
焦ったような、そんな言葉と。
ふわりと包み込まれる、温かい感覚。
「……っ、なん、で……」
「あんまり俺のことを見くびるんじゃねぇよ。お前の顔色見たら、また馬鹿みたいに無理してることくらいわかるっつーの!」
優しく、本当に優しく、だけど逃げられないように私を閉じ込めるゼノの力強い腕。
「昨夜だけ眠れてないなんて、そんなの嘘だろ。今にも死にそうな顔しておいて、俺に隠し通せると思ってたのか?」
「だって……これ以上っ、迷惑……」
「だーから、その迷惑になるっていう考え方がダメだっつってんだよ」
呆れたようなその言い方とは反対に、ゼノの手は本当に優しく私の頭を撫でてくれた。
「俺とベクターが拾った日から、お前はもう俺たちの家族同然なんだよ。お前は、俺たちにとって大切な存在なんだよ。迷惑なんて思ってんじゃねぇよ。家族なんだから、迷惑かけ合うのが当たり前だろ。もっと俺たちを……俺を頼れよ」
「っ……」
「いくらでも迷惑かけろ。それが家族だ。お前はいつまで自分の家族に遠慮してんだ」
"家族"、"大切な存在"、"迷惑をかけ合う"、"俺を頼れ"
ゼノの言葉一つ一つが、私の心を縛り付けていた不安の芽を少しずつ解いてくれる。
それは荒々しくて、決して丁寧とは言えないような解き方だったけれど。今の私には、それがすごく温かくて。
「ゼノっ……」
「あぁ」
「たすけてっ……わたし、もうずっと眠れてなくて……っ」
「……あぁ」
「こわいの。夢の中で、あの日を繰り返すの。それがこわくて……」
ゼノの肩に、縋り付くように腕を回して抱きつく。
心の綻びは、少しずつひび割れが広がっていって次第に大きな穴が開く。
……だけど。
「大丈夫。俺はここにいるから。どこにもいかないから。不安なら寝るまで一緒にいてやる。それでも怖いなら、嫌だって言われても一緒に寝てやるよ」
ゼノが、その大きな穴すらも包み込むように抱きしめてくれるから。
ゼノの肩が、私の涙で濡れていく。それでも、そんなこと気にしてなさそうにキツく抱きしめてくれる腕に、私はしばらく縋り付くように泣いて。
……そして、安心してそのまま意識を手放したのだった。




