第8話 閉じられる選択肢
家に着くまで、会話はなかった。
夕焼けの色がやけに濃くて、歩く足取りだけがやけに重い。
玄関の前で、沙夜姉が一度だけ立ち止まる。
「……覚えておきなさい」
振り向かずに言う。
「今日のあれは、偶然じゃない」
「……分かってる」
「いいえ」
小さく否定する。
「分かってないわ」
ドアを開ける。
「“外でも起きる”ってことの意味を」
そのまま中に入る。
後に続くしかない。
――
リビングの灯りがついていた。
ソファに座っている影が一つ。
「おかえり」
陽菜だった。
笑っている。
けど、その笑い方が少しだけ違う。
「遅かったね」
「……部活見てた」
適当に返す。
嘘じゃない。
ただ、足りないだけだ。
「ふーん」
陽菜は頷く。
そのまま、ゆっくり立ち上がる。
足音が、やけに静かだ。
「ねえ、お兄ちゃん」
近づいてくる。
昨日よりも、迷いがない。
「その人、来た?」
心臓が、一瞬だけ跳ねる。
「……誰の話だ」
「一ノ瀬さん」
即答だった。
完全に特定している。
やっぱり、見えている。
「来たよね」
問いじゃない。
確認だ。
「……来た」
否定しても意味がない。
そう答えた瞬間。
陽菜の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「そっか」
小さく笑う。
けど、その笑みは冷たい。
「じゃあ」
一歩、踏み込む。
距離が縮まる。
「私もいいよね?」
意味は分かる。
分かるけど――
「陽菜」
止めようとした瞬間。
後ろから声が重なる。
「駄目よ」
沙夜姉だ。
陽菜の動きが止まる。
「なんで?」
振り向かないまま聞く。
「私だって」
「同じじゃない」
即座に否定する。
その一言で、空気が張り詰める。
「……何が違うの」
陽菜の声が低くなる。
「全部よ」
沙夜姉は、迷いなく言う。
「あなたはまだ浅い」
その言葉に、陽菜の指先がわずかに震える。
「……平気だもん」
「平気じゃない」
被せる。
「今のまま進めば、止まらなくなる」
「それの何が悪いの?」
即答だった。
迷いがない。
「お兄ちゃんなんだから、いいでしょ」
その言葉に、息が詰まる。
完全に。
踏み越えている。
「……陽菜」
名前を呼ぶ。
けど、止まらない。
「だって」
こちらを見る。
まっすぐに。
「もう、そういうの関係ないでしょ?」
その一言で。
昨日までの“ライン”が消えた。
――完全に、外れている。
「……だから止めてるのよ」
沙夜姉の声が、わずかに低くなる。
「それ以上は、壊れる」
「壊れてるのはそっちでしょ」
陽菜が振り向く。
初めて、正面からぶつかる。
「自分だけ特別みたいに言わないで」
空気が、変わる。
冷たいものが走る。
「……特別よ」
沙夜姉は否定しない。
「最初に越えたのは、私だから」
その言葉に。
陽菜の表情が、はっきりと変わる。
驚き。
理解。
そして――
「……そうなんだ」
小さく呟く。
視線が、こちらに戻る。
その目が。
さっきまでと違う。
明確に。
“意識”している。
「じゃあ」
一歩、踏み出す。
距離が縮まる。
「私も越えればいいよね?」
その発想。
その結論。
完全に。
同じ場所に来ている。
「陽菜、やめろ」
腕を掴む。
強く。
「今は駄目だ」
「なんで?」
「……」
言葉が出ない。
理由はある。
けど。
説明できない。
その“曖昧さ”が。
今、一番危険だ。
「……分かった」
陽菜が、小さく頷く。
一瞬だけ、安心しかけた。
けど。
「今は、ね」
その一言で。
全部が崩れる。
手を振りほどかれる。
そして。
「その代わり」
距離を保ったまま、こちらを見る。
「外、行くのやめて」
はっきりと言う。
「もう、学校以外で出ないで」
条件提示。
取引。
完全に、そういう段階に来ている。
「……無理だろ」
「なんで?」
「普通に生活あるだろ」
「いらないでしょ」
即答だった。
迷いがない。
「この家にいればいいじゃん」
その言葉に。
背筋が冷える。
――閉じようとしてる。
完全に。
「……それは」
言いかけた瞬間。
「いい考えね」
横から声が入る。
沙夜姉だ。
「……は?」
思わず振り向く。
「管理するなら、その方が効率的だわ」
平然と言う。
「外部との接触を減らす」
「ちょっと待て」
さすがに止める。
「それ本気で言ってるのか」
「ええ」
迷いがない。
「必要なら、やる」
その目を見て、理解する。
――冗談じゃない。
本気だ。
「……おかしいだろ」
「ええ」
あっさり肯定する。
「おかしいわよ」
でも、と続ける。
「今さらでしょう?」
同じ言葉。
何度も聞いた言葉。
けど。
今は、重さが違う。
「……選べると思ってるの?」
沙夜姉が、静かに言う。
「もう、そんな段階じゃないのよ」
その一言で。
完全に理解する。
これはもう。
止めるとか、やめるとか。
そういう話じゃない。
――進んでいる。
確実に。
戻れない方向へ。
「……どうするの」
陽菜が、静かに聞く。
視線が刺さる。
二人分。
逃げ場はない。
選択肢もない。
あるのは――
決断だけだ。
「……」
言葉が出ない。
その沈黙を。
二人とも、じっと見ている。
まるで。
答えが出るのを、待っているみたいに。




