第6話 線を引くということ
翌朝。
玄関を出た瞬間から、違和感はあった。
視線。
はっきりとしたものじゃない。
けど、確実に“見られている”感覚。
「……」
振り返る。
二階の窓。
カーテンの隙間から、わずかに人影が見えた。
陽菜だ。
目が合った気がした瞬間、カーテンが閉じられる。
――分かりやすいな。
ため息を一つついて、歩き出す。
隣に、気配が並ぶ。
「遅いわね」
沙夜姉だ。
いつの間にか外に出ていたらしい。
「先に行けばよかっただろ」
「一緒に行く意味があるのよ」
淡々とした声。
意味を聞く気はしなかった。
どうせ、答えは決まっている。
――監視。
それ以上でも、それ以下でもない。
「……学校でもか?」
「当然でしょう?」
即答だった。
「あなた、昨日何を言われたか覚えてる?」
「距離を取れ、だろ」
「違うわ」
少しだけ間を置く。
「“線を引け”よ」
言葉のニュアンスが違う。
距離じゃない。
境界。
「……どう違うんだ」
「距離は物理的なもの」
歩きながら、沙夜姉は言う。
「線は、認識よ」
横目でこちらを見る。
「どこまで入れて、どこから拒むか」
はっきりと言い切る。
「それを曖昧にすると、取り込まれる」
その言葉に、昨日の凛の顔が浮かぶ。
『分かってても、離れたくないって思うの、ちょっと面白いね』
――あいつは、もう気づいている。
そして、踏み込んでくる。
「……無理だろ」
小さく言う。
「相手が来るんだから」
「来させないの」
即答だった。
「拒否しなさい」
簡単に言う。
けど。
「……それで済むなら、苦労しない」
「済ませるのよ」
ぴたりと足が止まる。
こちらを正面から見る。
「あなたが“普通”でいようとする限り、無理」
静かな声。
けど、逃げ場がない。
「普通じゃないって、自覚しなさい」
その一言で、何かが重くのしかかる。
――普通じゃない。
分かってる。
分かってるけど。
「……分かった」
そう答えるしかなかった。
――
教室。
いつも通りの空気。
騒がしさ、笑い声、雑談。
昨日と同じ。
……いや。
違う。
「おはよう、朝比奈」
凛が、自然な声で話しかけてくる。
距離は、いつもと同じ。
けど。
目が違う。
観察している。
完全に。
「……おはよう」
短く返す。
席に座る。
凛も、向かいの席に座る。
「昨日さ」
すぐに来た。
「考えたんだけど」
「何を」
「線の話」
心臓が、わずかに跳ねる。
――聞かれてたわけじゃない。
けど、同じ結論に来ている。
「どこまでなら平気なのか、気になって」
軽い口調。
でも、その目は真剣だ。
「……やめとけ」
即答する。
「危ない」
「うん、知ってる」
あっさりと頷く。
それでも。
「でも、知りたい」
そう言って、手を伸ばす。
――来る。
昨日よりも、迷いがない。
完全に“踏み込む側”だ。
「凛」
名前を呼ぶ。
止めるつもりで。
けど。
「大丈夫」
笑う。
「線、引くんでしょ?」
その言葉に、思考が止まる。
――分かってる。
俺が何をしようとしているか。
それでも。
「だから、試させて」
指先が、触れる。
ほんの一瞬。
それだけで。
空気が歪む。
思考が、鈍る。
「……っ」
凛の息が、わずかに乱れる。
目が、少しだけ揺れる。
――ここだ。
線を引く。
やるしかない。
手を、払う。
強めに。
「それ以上は駄目だ」
はっきりと言う。
距離を取る。
目を逸らさない。
「……」
凛は、しばらく黙っていた。
そのまま、じっとこちらを見る。
数秒。
長く感じる時間。
やがて。
「……なるほど」
小さく呟く。
「ここが線か」
納得したように頷く。
けど。
その目は、まだ死んでいない。
むしろ。
少しだけ、楽しそうだった。
「いいね、それ」
小さく笑う。
「分かりやすい」
――駄目だ。
これ。
止まってない。
むしろ。
「じゃあさ」
さらに言う。
「どこまでならいいのか、もう少し試してもいい?」
完全に、踏み込んできている。
線を引いたはずなのに。
その外側から、覗き込んでくる。
「……やめろ」
「なんで?」
「それ以上は」
「壊れる?」
被せてくる。
昨日と同じ言葉。
でも、今回は違う。
理解して言っている。
「それでもいいよ」
静かに言う。
笑っていない。
「ちょっとくらいなら」
――陽菜と同じだ。
入り口に立ったやつの、同じ言葉。
「……帰るぞ」
立ち上がる。
これ以上はまずい。
ここで止めないと。
「まだ朝だよ?」
「関係ない」
荷物を掴む。
教室を出る。
後ろから足音がついてくる。
「ねえ、朝比奈」
凛の声。
止まらない。
止まれない。
「それってさ」
少しだけ楽しそうな声。
「誰に教わったの?」
足が止まる。
振り向く。
凛が、すぐ後ろに立っていた。
距離が近い。
でも、触れてはいない。
「……何がだ」
「線の引き方」
にこりと笑う。
「誰かいるんでしょ」
――鋭い。
一瞬で、そこまで来るか。
答える気はない。
けど。
沈黙が、答えになる。
「ふーん」
凛は、少しだけ目を細めた。
「そっか」
小さく頷く。
そして。
「じゃあ、その人」
ほんの少しだけ声を落とす。
「邪魔だね」
その一言で。
背筋が、冷えた。
――完全に。
踏み込んできている。
しかも。
狙いが、はっきりしている。
このままだと。
家の中と、同じことが起きる。
外でも。
止めないといけない。
分かっているのに。
どう止めるかが、分からない。
そのまま。
何も言わずに歩き出す。
後ろから、凛の視線を感じながら。
――
その頃。
家では。
「……ふーん」
陽菜が、スマホを見ながら呟いた。
画面には、学校のSNS。
誰かの投稿。
そこに、わずかに映り込んでいる。
朝比奈湊と、一ノ瀬凛。
距離は、近い。
「そっか」
小さく笑う。
その笑いは、昨日よりも少しだけ冷たかった。
「外でも、やるんだ」
ぽつりと呟く。
そのまま、画面を閉じる。
そして。
「……面白くないな」
静かな声で、そう言った。




