第14話 帰宅後の確認
玄関の扉を開けた瞬間、嫌な予感は確信に変わった。
リビングの灯りがついている。
テレビは消えている。
物音もない。
静かすぎる。
「……ただいま」
声をかける。
少し遅れて。
「おかえり、お兄ちゃん」
陽菜の声が返ってきた。
ソファに座っていたらしい。
ゆっくり立ち上がって、こっちを向く。
笑っている。
けど、その笑い方は昨日までより静かだった。
「……早いな」
「今日は部活ないし」
当たり前みたいに言う。
そして。
「ちゃんとやってた?」
来た。
スマホの続きを、そのまま口に出しただけだ。
「……何を」
「線引き」
即答。
「一ノ瀬さんに」
逃がす気がない。
「やったよ」
「ふーん」
陽菜は一歩だけ近づく。
でも、触れない。
そこで止まる。
「どこまで?」
「必要なところまで」
「曖昧」
小さく笑う。
その目は、笑っていない。
「もっとちゃんと教えてよ」
「教える必要ないだろ」
「あるよ」
即答だった。
「だって、私も確認しないといけないし」
その理屈が通ってしまうのが厄介だった。
「……何を確認するんだ」
「お兄ちゃんが、ちゃんと制御できてるか」
言い方が変わった。
昨日までは「止められるか」だった。
今日は「制御できてるか」。
少しだけ、沙夜姉に近い。
「……誰に教わった」
「見てれば分かるよ?」
あっさり返される。
そのとき。
「ただいま」
玄関の奥から、もう一つ声がした。
沙夜姉だ。
タイミングが良すぎる。
振り返ると、靴を脱ぎながらこっちを見ている。
「ちょうどよかったわ」
そう言って、まっすぐこちらへ歩いてくる。
陽菜の隣で止まる。
「確認しましょう」
「……今からか」
「今だからよ」
迷いがない。
「外で主導権を持てたなら、家でも持てるはずでしょう?」
その理屈は、正しい。
正しいから、厄介だ。
「……持てなかったら」
「持たせるわ」
即答。
完全に指導側の声だった。
――逃げられないな。
「場所、変えるわよ」
沙夜姉がリビングの中央を指す。
テーブルとソファの間。
何もない空間。
「湊はそこ」
「私たちは?」
陽菜が聞く。
「左右」
短い答え。
「同時にやる」
背筋が冷えた。
「……おい」
「効率的でしょう?」
平然としている。
「外は一人だけでよかった。でも家は違うわ」
確かに。
こっちは二人いる。
しかも、凛より近い。
「じゃあ始めるわよ」
沙夜姉が立ち位置につく。
陽菜も反対側に移動する。
三人の距離は、ぎりぎり触れない程度。
昨日より少し近い。
「条件は同じ」
沙夜姉が言う。
「触れない。越えない。止めろと言ったら止まる」
「分かった」
陽菜が先に返事をする。
こっちを見る目が、少し楽しそうだ。
「……分かった」
遅れて答える。
「じゃあ」
沙夜姉が視線を向ける。
「まずは陽菜から」
予想通りだった。
陽菜がゆっくり一歩だけ踏み込む。
近い。
でも、まだ線の外だ。
「ここまで」
小さく言う。
「どう?」
視線がまっすぐぶつかる。
陽菜は外ほど読みやすくない。
近い分、最初から濃い。
息が少し浅くなる。
思考が鈍る。
でも、崩れるほどじゃない。
「……問題ない」
「そっか」
陽菜は嬉しそうに笑う。
けど、そこからさらに半歩だけ来る。
――来た。
「待て」
即座に言う。
陽菜の足が止まる。
ぎりぎり。
線の直前。
「……へえ」
陽菜が小さく目を細める。
「ちゃんと分かるんだ」
「当たり前だ」
「ふふ」
その笑い方が、少しだけ甘い。
まずい。
「戻れ」
「はいはい」
言葉ほど素直じゃない足取りで、元の位置に下がる。
空気が、少し軽くなる。
「次」
沙夜姉が言う。
今度は自分が前に出る番だった。
一歩。
近づく。
陽菜とは違う圧がある。
静かで、逃げ場がない。
「ここ」
そこで止まる。
距離は陽菜より少し遠い。
でも、感覚は逆に重い。
「……どう?」
聞き方まで似ているのに、意味が違う。
息が詰まる。
思考が鈍る。
でも、それ以上に――意識が引かれる。
まずい。
「……そこまでだ」
少し強めに言う。
沙夜姉は止まる。
そのまま数秒、こっちを見る。
やがて。
「そう」
小さく頷く。
「やっぱり、私の方が深いのね」
淡々とした確認。
けど、その言葉に陽菜が反応する。
「は?」
「事実よ」
沙夜姉は振り向かない。
「今ので分かったでしょう?」
空気が張る。
陽菜の視線が鋭くなる。
「……ずるい」
ぽつりと呟く。
「何が」
「全部」
陽菜が、また一歩踏み込もうとする。
「待て」
こっちが先に止める。
その声に、陽菜の足が止まる。
止まったまま、睨むようにこっちを見る。
「……今のは私じゃなくて、沙夜姉見てたでしょ」
鋭い。
完全に当ててくる。
「……」
答えない。
答えられない。
沈黙が答えになる。
「そっか」
陽菜が小さく笑う。
今度の笑いは、冷たい。
「だったら」
視線が真っ直ぐになる。
「私の方、見てよ」
その一言で、空気が変わる。
要求だ。
しかも、明確な。
「陽菜」
沙夜姉が制止しようとする。
「黙って」
陽菜が初めて、はっきりと遮った。
静かなのに、強い。
「今、私が話してる」
その声音に、一瞬だけ沙夜姉も黙る。
――ここまで来たか。
陽菜はそのままこちらを見る。
「お兄ちゃん」
呼び方が、少しだけ甘い。
でも、その中に強さが混じる。
「私の方、見て」
逃げられない。
ゆっくり視線を向ける。
その瞬間。
陽菜の表情が、わずかに緩む。
「……うん」
満足したみたいに、小さく笑う。
「じゃあ、もう一回」
「一回までだ」
即座に言う。
ルールを戻す。
「えー」
「駄目だ」
言い切る。
陽菜は少しだけ不満そうにしたが、やがて肩をすくめた。
「……分かった」
素直に下がる。
でも、その目はこっちから外れない。
「今日はここまでね」
沙夜姉が言う。
声は落ち着いている。
けど、その視線の奥に何かある。
「結論は?」
陽菜が聞く。
「外では主導権を持ててる」
沙夜姉が淡々と答える。
「家では、まだ不安定」
「……まだ、か」
思わず呟く。
「ええ」
沙夜姉は頷く。
「特に陽菜相手だと、意識が引っ張られる」
的確すぎた。
「じゃあ次は、もっと詰める?」
陽菜が軽く言う。
「詰めないわ」
沙夜姉が即答する。
「今はまだ」
今は、という言い方。
つまり、いずれはやるつもりだ。
「……勘弁してくれ」
ため息混じりに言う。
すると。
「無理」
陽菜が笑った。
「だって、確認しないといけないし」
「そうね」
沙夜姉も同意する。
二人の意見が揃うのが、一番厄介だった。
そのとき、スマホが震えた。
嫌な予感しかしない。
画面を見る。
【一ノ瀬 凛】
『今日、ちゃんと主導権握れてたね』
心臓が一瞬止まりそうになる。
続けて、もう一件。
『でもさ、あれって家でも練習してるの?』
思わず顔を上げる。
陽菜と沙夜姉が、ほぼ同時にこっちを見ていた。
最悪だった。
「……誰から?」
陽菜が聞く。
声は明るい。
でも、目が笑っていない。
「一ノ瀬さん?」
沙夜姉は何も言わない。
ただ、静かに見ている。
逃げ場はない。
今日もまた。
「……ああ」
短く答えるしかなかった。
その瞬間。
家の中の空気が、また少しだけ濃くなった気がした。




