第15話 見透かされる家の中
空気が変わったのは、一瞬だった。
ほんの少し前まで、ただ重いだけだったリビングの空気が、今は明確な熱を帯びている。
「……ああ、じゃないでしょ」
陽菜が先に口を開いた。
声は明るい。
でも、その明るさが逆に危うい。
「何て?」
「家でも練習してるの、って」
そのまま口に出す。
逃がす気がない。
「……見透かされてるね」
小さく笑う。
笑っているのに、全然笑っていない。
「一ノ瀬さん、鋭いんだ」
「ええ」
沙夜姉が短く返した。
「思った以上に」
その声は落ち着いている。
けれど、肯定の仕方が妙に引っかかる。
「……感心してる場合かよ」
思わず言うと、沙夜姉がゆっくりこちらを見る。
「感心はしてないわ」
静かな声。
「厄介だと思ってるの」
それはそうだ。
完全に。
凛はもう、ただ近づいてくるだけじゃない。
こっちの動きまで読もうとしている。
「で?」
陽菜が一歩だけ近づく。
触れない距離。
けど、その意識は完全に内側だ。
「どう返すの?」
スマホを持ったまま、答えに詰まる。
返さない、という選択肢もある。
でも、それはそれで余計に面倒だ。
「……返す必要あるか?」
「あるでしょ」
陽菜が即答する。
「無視したら、もっと来るよ」
その通りだった。
凛はそういうタイプだ。
「既読は?」
沙夜姉が聞く。
「……まだ」
「なら、主導権はまだこちらにあるわね」
その言い方で、理解する。
――返し方まで管理する気か。
「どうするんだ」
「簡単よ」
沙夜姉は、あまりにも平然としていた。
「肯定しない。否定もしない。情報を渡さない」
「それ、結局何て返すんだよ」
「曖昧に切るの」
短く答える。
「“関係ない”で十分よ」
確かに。
それなら、踏み込ませない。
「つまんない」
陽菜が小さく唇を尖らせる。
「もっと揺さぶればいいのに」
「駄目よ」
沙夜姉が即座に否定した。
「今はまだ、向こうの観察段階」
「じゃあ、いつならいいの?」
「こちらが完全に制御できるようになってから」
その会話を聞いて、頭が痛くなる。
まるで、凛を相手に実験でもしているみたいだった。
「……お前ら、いつの間にそんな前提で話してるんだ」
思わず漏れた言葉に、二人ともこっちを見る。
そして。
「最初からでしょう?」
沙夜姉が言った。
「そうだよ?」
陽菜も続く。
その温度差に、軽く眩暈がする。
――駄目だな、これ。
自分だけが、未だに“普通”の延長で考えている。
「……返す」
観念して、画面を見る。
短く打つ。
『関係ない』
送信。
既読は、数秒もかからなかった。
そのまま三人とも、画面を見つめる。
妙な絵面だと思う。
でも、誰も何も言わない。
そして。
返信。
『そっか。じゃあまだ教えてくれない段階なんだ』
陽菜が、吹き出すように笑った。
「何それ。怖」
「……読んでるわね」
沙夜姉が静かに言う。
「完全に」
続けて、もう一件届く。
『でも、隠してるってことはあるんだ』
「うわ」
陽菜が楽しそうに目を細める。
「やっぱ面白いね、一ノ瀬さん」
面白がってる場合じゃない。
完全に、返答から情報を抜かれている。
「だから言ったでしょう」
沙夜姉が落ち着いた声で言う。
「相手は鋭いの。曖昧さを残しすぎても駄目」
「……じゃあどうしろってんだ」
「今度は切る」
短い答え。
「会話を終わらせるの」
頷くしかない。
もう、ここまで来たら従った方がマシだ。
『もうこの話は終わりだ』
送信。
すぐに既読。
けれど、今度は少しだけ間があいた。
十秒。
二十秒。
その沈黙が、逆に重い。
そして。
『了解。じゃあ明日、別の話しよっか』
その一文に、背筋が冷えた。
――引いてない。
全然。
ただ、角度を変えただけだ。
「賢いわね」
沙夜姉が小さく呟く。
「正面から来ないつもりだわ」
「面倒だな……」
「うん」
陽菜が笑う。
「でも、その方が壊しがいあるよね」
ぴたり、と空気が止まった。
今の一言で。
「陽菜」
沙夜姉が低く名を呼ぶ。
「何?」
「言い方に気をつけなさい」
「事実じゃん」
陽菜は平然としている。
「一ノ瀬さん、もう入りかけてるでしょ」
否定できなかった。
それは事実だからだ。
でも。
「……壊す前提で話すな」
少し強めに言うと、陽菜がこちらを見る。
その表情が、少しだけ揺れた。
「……じゃあ何?」
「止めるんだろ」
「止まらないよ」
あっさりと言う。
残酷なくらい、あっさりと。
「だって、私たちだって止まってないし」
その言葉が、妙に重かった。
沙夜姉は何も言わない。
否定もしない。
それが余計に現実味を増す。
「……」
反論が出てこない。
陽菜はそのまま少しだけ視線を落とした。
「お兄ちゃんさ」
声が、少しだけ柔らかくなる。
「まだ“止められる”って思ってる?」
核心だった。
そして、それに答えられない自分がいた。
止めたい。
止めるべきだと思っている。
でも、本当に止められるかと言われたら――
「……分からない」
正直に言うしかなかった。
その瞬間、陽菜が小さく笑った。
「そっか」
嬉しそうでも、悲しそうでもない。
ただ、納得したみたいな笑いだった。
「それならいいや」
「何がだ」
「ちゃんと見えてるなら」
その言葉だけ残して、陽菜はソファに戻る。
スマホを手に取って、また何かを見始めた。
話が終わったみたいに。
でも、全然終わっていない。
「湊」
沙夜姉が静かに呼ぶ。
「……何だ」
「今日の収穫は二つよ」
指を二本立てる。
「一つ。一ノ瀬は、会話の主導権でも探ってくる」
確かにそうだ。
「もう一つ」
少しだけ間を置く。
「あなた自身が、まだ現実を甘く見てる」
痛いところを突かれた。
「……分かってる」
「いいえ」
静かに否定する。
「分かってるなら、“止める”なんて言葉は出ないわ」
その一言に、胸の奥が少しだけ冷える。
「じゃあ何だよ」
少しだけ苛立ちが混じる。
「諦めろってのか」
「違うわ」
沙夜姉は首を横に振る。
「制御しなさいと言ってるの」
落ち着いた声。
「壊さないために」
矛盾しているようで、していない。
止めるのではなく、進行を管理する。
それがこの人の考え方だ。
「……本当にできるのか」
「できるようにするの」
迷いがない。
「私も、陽菜も、そのためにいる」
その言葉に、陽菜がスマホから顔を上げる。
「うん」
軽く頷く。
「見ててあげる」
その言い方が、妙に優しかった。
優しいのに、逃げ場がない。
――この家、本当におかしいな。
今さらそんなことを考えていると、不意にまたスマホが震えた。
三人とも、同時にそちらを見る。
画面。
【一ノ瀬 凛】
短い一文。
『ところで、朝比奈ってキスしたことある?』
沈黙。
完全な沈黙。
数秒後。
「……は?」
間抜けな声が、思わず漏れた。
陽菜が、目を見開く。
沙夜姉は――
何も言わなかった。
ただ、静かに目を細めていた。




