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その翌日から、学園の空気は目に見えて変わった。
鐘の鳴り方も、白い廊下へ落ちる光も、食堂に満ちる焼きたての匂いも、何も変わってはいないはずなのに、生徒たちの目の置き場だけが違っていた。誰もが、いま自分の立っている場所が仮のものだと知っている。三か月の仮寮生活は、もう“慣れるための時間”ではなくなっていた。
見られたもの。
返されたもの。
届かなかったもの。
それらを抱えたまま、次にどこへ置かれるのかを待つ時間へ変わっていた。
クレイス棟の朝は、以前より静かだった。
目覚めの合図より少し早く、起きる者が増えた。身支度を整える音も、衣擦れも、前ほど慌ただしくない。急いでいるのではなく、遅れまいとしている音だ。
カストルは、その静けさの中で目を開けた。
胸の奥に残る重さは、まだ消えていない。
訓練場で見た現実。
ズヴォルタに言われた言葉。
“いたいことと、残るべきことは違う”。
その一言は、夜を越えてもなお胸の内に留まり、息をするたび少しずつ形を変えた。悔しさとも、敗北感とも違う。もっと鈍く、もっと確かなものだ。
「起きてる」
小さな声がして、視線だけを向けると、セリノスが自分の寝台の脇で立っていた。赤い髪は朝の薄い光の中で暗く見え、茶色の瞳はいつものように静かだ。
「……起きてる」
「今日は起こしに来なくてもよかったね」
それは責めるでも、褒めるでもない言い方だった。
カストルは起き上がりながら、喉の奥でひどく小さく息を返す。
「眠れなかっただけだ」
「うん」
セリノスはそれ以上を掘らなかった。
掘らないまま、自分の机へ戻り、制服の襟を整える。そういう距離の取り方が、今朝はありがたかった。
食堂では、すでにいくつもの噂が低く流れていた。
誰々の仮寮兄が本寮の傾向を知っているらしい。
特別寮から見に来ていた上級生がいた。
リチェルカの生徒が夜遅くまで教師と話していた。
どれも確かな形を持たない噂だ。
だが噂というものは、確かでない時ほど人の胃を冷やす。
アルケスは、その朝の食卓でようやく食べ物の味を少しだけ取り戻していた。
黒パンはよく焼けていて、外は硬く、中はまだ少しだけ温かい。香草を落とした白い豆の煮込みは、昨日より塩がまろやかに感じた。
悔しさが消えたわけではない。
けれど、悔しさの向きが変わったのだろう。
講堂での結果はもう結果として胸へ収まった。いま目の前にあるのは、その先で何を見られるかだ。
ズヴォルタは向かいの卓で食べていたが、途中で一度だけこちらへ視線をよこした。
「顔は戻ったな」
低く言う。
アルケスは問い返さなかった。
戻った、という意味は分かる。
講堂のあとの、自分の中へ潜り込みすぎた顔ではなくなった、ということだ。
「本寮は、課題の勝ち負けだけで決まるわけじゃない」
ズヴォルタは黒パンをちぎりながら続けた。
「分かっている者から順に、落ち着く」
「はい」
「分かっていない者は、今ごろ焦って余計なことをする」
その“余計なこと”が誰を指すのか、言葉にしなくても伝わる。
アルケスは短く頷いた。
ジェスル棟の食堂では、ポルックスのいる卓の空気が妙に整いすぎていた。
最優秀ブローチを受けたあとの数日は、同級生たちの視線が少しだけ変わる。近づき方に遠慮が混じり、話しかける声もどこか慎重になる。だが、慎重になればなるほど、ポルックスの方は以前より淡々と受け流すようになった。
いまや胸元の小さな光は、飾りというより境界線のようだった。
「本寮、どこだと思う?」
ケラノスが訊いたのは、焼いた白身魚の骨をきれいに皿の端へ寄せたあとのことだった。
「きみ?」
「僕じゃなくて、みんな」
その問い方に、ポルックスは少しだけ目を細めた。
みんな。
そう言いながら、ケラノスが気にしているのは自分のことでもある。
器具を持たなくなってから、彼は以前より周囲をよく見るようになった。見るようになったぶん、周囲の視線もまた自分へ返ってくることを知ってしまったのだろう。
「リチェルカが騒がしい」
ポルックスは答えた。
実際、最近のリチェルカの生徒たちは妙に活気づいている。騒がしいというより、静かに浮き足立っている。課題の中で見せた分析の速さや、会話の裏側を拾う手つきが、これからの本寮振り分けでも強く見られると知っている者の空気だ。
そのリチェルカの卓にいたセヴェロは、今朝も壁際の席で一人、ノートへ何か書きつけながら食事をしていた。周囲の声を拾っているのに、いちいち反応しない。ああいう静けさが、ポルックスには妙に目につく。
「きみは?」
ケラノスがまた訊く。
「どこへ行くと思う?」
「知らない」
「知らないって顔じゃない」
そこで、ポルックスは茶の器へ口をつけた。
温かい。
香りもよい。
それでも、答えをここで軽く口にする気にはなれなかった。
「まだ決まってない」
そう言うと、ケラノスは苦笑した。
「学園っぽい返事」
その言葉の軽さが、今朝は少しありがたかった。
学園棟の中庭に面した廊下では、特別寮の生徒たちの気配がいつもより濃かった。
レオニードもその一人だった。
特別寮の生徒は、ただ目立つのではない。視線を集めることそのものに慣れている。だから、周囲がざわつくほど自分は静かになる。
レオニードはその朝、監督弟と並んで何か短いやり取りを交わしていた。内容は聞き取れない。けれど、頷き方ひとつで分かる。あれは新入生の噂話ではなく、もっと実務に近い話し方だ。
カストルは、廊下の端からその姿を見ていた。
自分とは違う。
その違いが、もう嫌というほど分かる。
特別寮にいるような者は、前へ出る時も、引く時も、全体の流れを壊さない。クレイスの前線の気配とも、リチェルカの静かな観察とも、また少し違う。
それを見分けられるようになったこと自体が、皮肉だった。
「見てるね」
セリノスが隣で言う。
「……見てない」
「見てるよ」
あっさり返され、カストルは不機嫌そうに眉をひそめた。
けれど、視線を逸らしはしなかった。
「特別寮って、嫌い?」
「嫌いじゃない」
答えてから、自分でも意外だった。
嫌いなのではない。
違いが分かってしまうのが、嫌なのだ。
「じゃあ、羨ましい?」
「……それも違う」
「うん」
セリノスはすぐに頷く。
「たぶん、“遠い”んだね」
その一言で、カストルは言い返せなくなった。
遠い。
まさにそれだった。
憧れでも、嫌悪でもなく、届きそうで届かない場所の遠さ。
ズヴォルタの言葉も、訓練場で崩れかけた荷の重さも、全部がそこへ繋がっていた。
昼過ぎ、仮寮兄たちがいくつかの部屋を順に回り始めた。
まだ何かを告げるわけではない。
ただ、寝台の整え方、机の上の紙束、衣服の畳み方、靴の泥の落とし方。そういう細部を以前より静かに見ていく。
誰も「本寮決定の前だから」とは言わない。
それでも、新入生たちはみな知っている。
これがその前触れだ。
ジェスル棟で、ポルックスは自分の机の上を整え終えたあと、ふと窓の外を見た。
グラウンドの向こう、クレイス棟へ入っていく白い背中のひとつに、アルケスがいる。
講堂のあと、少し変わった。落ち込むのではなく、静かに悔しさを噛みしめる顔になった。ああいう顔は長く残る。残るから、次に強くなる。
ポルックスはそこで、妙に冷たい予感のようなものを覚えた。
自分もまた、いまの位置に留まり続けることはできないのだろう。
取ったからといって終わらない。
むしろ、取った者ほど次は別の形を求められる。
夕方近く、クレイス棟の七人部屋で、ズヴォルタは全員が揃うのを待ってから口を開いた。
「数日内に、本寮決定前の最後の確認が入る」
声は低い。
無駄がない。
「ここから先は、課題で見せたものだけでは足りない」
「生活、規律、身体、思考、全部が見る側へ渡る」
部屋の空気が、音もなく締まった。
カストルは膝の上で手を組んだまま、視線を上げる。
「最後の確認って何ですか」
「知る必要はない」
ズヴォルタは即答した。
「知らぬまま出るから、確認になる」
その通りだった。
用意できる試験なら、用意した者だけが強くなる。
だが学園が見たいのは、用意した顔ではない。
ズヴォルタの目が、一瞬だけカストルへ留まる。
「自分が何に向いていて、何に向いていないかを、見誤るな」
たったそれだけなのに、部屋の中の時間が止まったように感じた。
カストルは返事をしなかった。
できなかった。
あまりにも、今の自分の奥へ届きすぎる言葉だったからだ。
夜、ジェスル棟では、ケラノスが久しぶりに器具の包みを取り出した。
まだ持ち歩く気にはなれない。
だが、触れもしないままでは終われないのだろう。
革帯を新しく替えたその包みを、彼は寝台の上でそっと開き、青白い光を一度だけ灯した。光は小さく、揺れず、壊れていなかった。
「きれいだね」
シャムがそう言うと、ケラノスは少しだけ笑った。
「うん」
「また持っていく?」
「……もう少しあと」
その答えに、ポルックスは何も言わなかった。
だが、そう答えられるようになったこと自体が、すでに戻り始めている証なのだと思った。
その晩、学園棟の上階ではまた名簿が運ばれていた。
白い紙束。
封じられた記録。
寮ごとの印。
行き先のまだ書かれていない欄。
夜の廊下を行く上級生たちの足音は静かで、だからこそ新入生たちの胸を落ち着かなくさせる。誰もその紙束を覗くことはできない。だが、そこへ自分の名があることだけは分かる。
風が窓を鳴らした。
白い制服の新入生たちは、それぞれの寝台で、あるいは机の前で、あるいは窓辺で、その音を聞いた。
仮寮の白は、もう長くない。
それがどんな色へ変わるのか。
どこへ置かれるのか。
誰もまだ知らない。
知らないまま、夜だけが静かに深くなっていった。




