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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子
第十章

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 その日の午後、学園棟の北寄りにある実習講堂へ向かうよう命じられた時、カストルは胸の奥に、冷たい石でも沈んだような重みを覚えた。


 訓練場での試験から、まだ幾日も経っていない。

 肩へ食い込んだ鉄具の重みも、砂に足を取られかけた瞬間のあの空白も、まだ身体のどこかへ残っている。思い出そうとしなくても、呼吸が少し乱れるたび、あの時の息苦しさが勝手に戻ってきた。


 実習講堂は、白い壁と高い窓を持ちながら、食堂や大講堂とはまるで趣が違っていた。

 人の目を楽しませるための豪奢はなく、音の行き場さえ計算されているような、研ぎ澄まされた静けさだけがある。磨かれた床の上へ落ちる光は淡く、そこへ立つ生徒の影ばかりを、妙にはっきりと浮かび上がらせた。


 集められていたのは、先日の実地試験へ出た者たちが中心だった。

 クレイスの生徒がやや多い。

 だが、それだけではない。ジェスルの生徒もいれば、リチェルカの者も混じっている。さらに、そのどの寮とも少し違う気配をまとった生徒たちが、数名、壁際に静かに立っていた。


 エスペランサ寮の生徒たちだった。


 彼らは、いつ見ても不思議な立ち方をする。

 家名の高さを見せつけるでもなく、貧しさを隠すでもない。選ばれてここへ来た、その一点だけを、まるで胸の奥で灯した火のように守っている。だから目立つのに、派手ではない。手を伸ばせば届きそうで、実際には届かない。そういう遠さがあった。


 その中に、レオニードがいる。


 金に近い淡い髪をきちんと撫でつけ、琥珀色の目を静かに伏せている。背筋に無駄な力が入っていないのに、気を抜いているようには少しも見えない。

 訓練場で、崩れかけた荷の片側を、何でもないことのように支えたあの少年だ。

 カストルは、無意識にその姿を見ていた。


 教員が前へ立つ。


 白い礼装。

 低い声。

 言葉を飾らぬ話し方。


「本日は、本寮決定前の最後の確認として、各寮の気風と、そこで求められるものについて改めて話す」


 講堂の空気が静かに締まる。


「クレイス、ジェスル、リチェルカ、エスペランサ。諸君はすでに、それぞれの寮の気配へ触れているはずだ」

「本寮は、憧れだけで決まるものではない。課題の成績だけで決まるものでもない」

「生活、規律、思考、身体、そして他者との噛み合い方。見られているのは、そのすべてだ」


 カストルは、その一言一言が、自分の胸の奥へ鈍く沈んでいくのを感じた。


 憧れだけでは決まらない。

 その通りだ。

 訓練場のあの勾配の途中で、自分はもう、それを知ってしまった。


 教員は、まずリチェルカについて短く触れた。


「リチェルカは、急いで答えを出すことを良しとしない」

「だが、迷い続けることを良しとするわけでもない」

「見るべきものを見て、量るべきものを量り、置く順を誤らぬ者が、あの寮で伸びる」


 その言葉に、壁際のセヴェロがほんの少しだけ目を上げた。

 やはり、あの少年はよく見ている。訓練場でもそうだった。荷の重心、勾配、持つ者の呼吸、崩れる順番。そういうものを、前へ出るより先に拾っていた。


 次に教員の視線は、エスペランサの生徒たちへ向けられた。


「エスペランサは、学園へ選ばれた者の寮だ」

「家の力で立つのではない。国の推薦と、学園で学ぶに値すると見なされた資質、その二つで立つ」

「ゆえに、あの寮にいる者たちは、他寮の誰よりも学園へ忠実であることを求められる」


 エスペランサの列には、ざわめき一つ起きなかった。

 誇りに思う。

 その気持ちを、ことさら顔へ出さずとも、彼らがすでにその誇りの中で生きていることは伝わってくる。


 レオニードの横顔にも、揺らぎがなかった。

 選ばれた者の静けさとは、こういうものなのかと、カストルは思う。

 華やかではない。けれど、近づこうとすると、こちらの手の粗さばかりが目につくような静けさだ。


 そして教員は、クレイスへ言及した。


「クレイスは、前へ立つ者の寮だ」

「だが、前へ立ちさえすればよいわけではない」

「重さを引き受けたうえで、周囲の呼吸を乱さぬ者。自分の意志だけでなく、全体の流れと歩幅を揃えられる者。そういう者が、あの寮では生き残る」


 その言葉は、風ではなく刃のように落ちた。


 カストルは、無意識に息を止めていた。


 前へ立つ。

 それは、自分がずっと望んできたことだった。

 誰より前で、誰よりまっすぐに立つ。そうして何かを守る側にいたいと、強く思ってきた。

 けれど、前へ立つことと、前で持ちこたえることは違う。

 その違いを、自分はすでに身体で知っている。


 鉄具を抱えたまま、一歩前へ出すぎた。

 息を詰め、肩に力を込め、耐えたつもりで、実際には流れを崩しかけた。

 前へ出たい気持ちは強い。

 その強さそのものは、嘘ではない。

 だが、その強さがそのままクレイスに向くわけではないのだと、もう知ってしまった。


 教員の説明が終わり、短い散会が命じられる。


 生徒たちは寮ごとにまとまりながら、講堂の外へ出ていく。

 白い廊下へ戻ると、午後の光はさきほどより少しだけ傾いていた。


 カストルは、流れに乗りかけた足をふと止めた。


 少し先を、レオニードが一人で歩いている。

 エスペランサの生徒は、群れていなくても孤立して見えない。自分の輪郭を自分で保てる者だけが、あそこへ入るのかもしれない。そんなことを思う。


 気づけば、呼び止めていた。


「レオニード」


 相手が足を止め、静かに振り向く。


「何だ」


 問い返す声は変わらず淡々としている。

 その淡々とした響きが、かえって逃げ道をなくした。


 カストルは、唇を一度引き結んだ。

 整った質問など、頭の中にない。


「お前たちは」


 言いかけて、少しだけ息を整える。


「迷わないのか」

「何に」

「どこにいるべきか、だ」


 レオニードは、しばらく答えなかった。

 その沈黙は、見下すためのものではない。

 言葉を選んでいる沈黙だった。


「迷う」


 やがて、そう言う。


 意外なほど、あっさりと。


「でも、迷ったあとで考えるのは“どこが似合うか”じゃない」

「では何だ」

「何を返せるかだ」


 カストルは眉を寄せる。


「返す?」

「エスペランサの者は、学園に選ばれてここへ来る」


 レオニードの声は静かだ。

 誇りをひけらかす調子ではない。

 ただ、それが自分たちの立ち方なのだと知っている者の声音だった。


「だから、自分が何を学園へ返せるかを考える」

「どこへ行きたいかより先に?」


「先だ」


 その一語が、ひどく真っ直ぐだった。


「行きたい場所は、だいたい願いが先に立つ」

「返せるものは、願いだけでは決まらない」


 カストルは、そこで何も言えなくなった。


 願いならある。

 クレイスにいたい。

 前へ立ちたい。

 そういう願いは、誰より強いとさえ思う。


 けれど、返せるものは何かと問われた時、自分の中から真っ先に出てくる答えは、どうしても揺らぐ。前へ飛び出す熱か。下に見た者への怒りか。あるいは、真正面から立ちたいという気性か。

 どれも自分の一部ではある。

 だが、クレイスへ返すものとしては、どこかまだ粗すぎる。


 レオニードは続けた。


「きみは前へ出たいんだろう」

「悪いか」

「悪くない」


 また、すぐそう返す。


「でも、きみは前へ出たあとの息の仕方を、まだ知らない」

「……」


「前に立つ者は、苦しくても周りの呼吸を乱さない」

「きみは今、自分の苦しさを押し切ることで精一杯だ」


 言葉は淡々としていた。

 だが、淡々としているからこそ、反論の余地がない。


 訓練場の勾配。

 肩へかかった荷。

 踏み出しすぎた一歩。

 石壁へぶつかった鈍い音。

 全部が、一瞬で蘇る。


「きみは、別の場所で活きる」


 レオニードはそこで初めて、ほんの少しだけ目を和らげた。


「それを恥だと思うなら、きみはどこへ行っても苦しい」


 その言葉に、カストルは喉の奥がひどく乾くのを感じた。


 恥。

 たしかに、自分はそう受け取っていた。

 クレイスから外れるかもしれないことを、前線に立つ資格がないことを、どこか敗北に近いものとして受け止めていた。

 だが、そうではないと言われても、すぐには胸へ収まらない。

 収まらないのに、否定もできない。


 レオニードは、それ以上何も言わずに歩き去った。


 その背中には、名残も説得もなかった。

 こちらに何かを理解させようという親切さすらない。ただ見たものを、そのまま置いて去っただけだ。


 それがひどくエスペランサらしいと、カストルは思った。

 自分の立ち方を、他者へ押し売りしない。

 ただ、そこにあるものとして示す。

 届かぬようでいて、目だけは離せない。

 あの寮の不思議な魅力は、たぶんそういうところにある。


 クレイス棟へ戻る道で、セリノスは何も訊かなかった。


 並んで歩く。

 白い連絡通路に、二人分の影が並ぶ。

 風は今日も少し冷たく、窓の外ではグラウンドの砂が細く流れていた。


 やがて、カストルの方から口を開く。


「俺は、クレイスにいたい」


 声は低く、ひどく素直だった。


 セリノスはすぐには答えない。

 歩幅だけを少し合わせる。


「うん」

「でも」


 そこから先が重い。

 言葉にすれば、いよいよ戻れなくなる気がした。

 それでも、もう知ってしまったことからは逃げられない。


「たぶん、クレイスに残るべきじゃない」


 言った瞬間、胸の奥で長く張っていたものが、静かにたわんだ。


 折れた、というほど鋭い感覚ではない。

 もっと鈍く、もっと深い。

 自分で自分の願いを、手の中から下ろした時の痛みに似ていた。


 セリノスは、ほんの小さく息を吐いた。


「言えたね」


 いつもの柔らかな調子だった。

 慰めるわけでもない。

 褒めるわけでもない。

 ただ、それが今のカストルには一番ありがたかった。


「……うるさい」

「うん」


 それで終わる。

 終わるのに、その短さの中で、何かがきちんと受け止められた感じだけが残る。


 夕方、七人部屋へ戻ると、ズヴォルタがいた。


 高等部三年の仮寮兄として過ごす時間も、もう長くはないのだろう。

 それが分かるから、彼の立ち姿は以前より少しだけ遠く見えた。仮の役目を終えて、自分の本来の生活へ戻っていく人の背中だ。


 ズヴォルタは、一人ひとりの顔を順に見て、最後にカストルへ目を留めた。


「自分の中で、答えは見えたか」


 声は低い。

 けれど、以前のようにただ押しつける響きではなかった。


 カストルはまっすぐその目を見た。


「……見えました」


 ズヴォルタはしばらく黙っていた。

 それから、机の上へ置いていた紙を静かに伏せる。


「そうか」


 たったそれだけ。

 なのに、その二文字の重みが、ひどく胸に残った。


「なら、お前が次にすることは一つだ」


 ズヴォルタは続ける。


「見えた答えから目を逸らさずにいることだ」

「悔しくても、格好が悪くても、それを見失うな」


 カストルは唇を引き結んだ。

 悔しい。

 格好が悪い。

 その両方を、まるで手に取るように言われてしまう。

 だが否定はできない。

 その通りだからだ。


 ズヴォルタは最後に、ほんの少しだけ声を落とした。


「お前は弱くない」

「ただ、立つ場所が違うだけだ」


 その言葉で、カストルは初めて、胸の奥の痛みが少しだけ別の形へ変わるのを感じた。


 否定ではない。

 切り捨てでもない。

 違う場所だと、そう言われたのだ。


 それが慰めではなく、事実として落ちてくるからこそ、かえって重い。


 夜、窓の外には淡い月が出ていた。


 セリノスはいつものように窓辺へ立つ。赤い髪の輪郭が月明かりに薄く縁どられ、茶色の瞳は見えなくても、祈るような静けさだけがそこにあった。


 カストルは寝台に腰を下ろしたまま、その背中を見ていた。


 クレイスを去ることになる。

 その現実はまだ完全には胸へ収まっていない。

 それでも、もう知らなかった頃の自分には戻れない。

 前へ出たいという願いだけで、自分の置かれる場所を決めることはできないのだと、知ってしまったからだ。


 窓の外で、風が木々を揺らす。

 その音はどこか遠く、けれど、次の場所へ向かうための道だけは静かに開いているように聞こえた。

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