7
その数日後、学園にひとつ、妙な静けさを伴った実地試験が入った。
課題が終わり、講堂での評価が返され、誰もが次の選別を意識し始めた頃だった。
朝から空は高く、風は乾いていた。グラウンドの土はまだ冷えを残し、靴底が踏むたび、わずかに白い砂塵が舞う。寮棟と学園棟のあいだを行き来する白い制服の列には、以前のような浮ついたざわめきがない。代わりに、何かを待つ者たち特有の、喉の奥で息を殺したような沈黙があった。
試験内容は、朝の時点では明かされなかった。
ただ、中等部の一部生徒にだけ、訓練場寄りの実習棟へ集合せよという指示が出た。
クレイスの生徒が多い。
だが、それだけではない。ジェスル、リチェルカ、それに特別寮からも数名が呼ばれているらしい――そんな噂が、朝食の卓を低く流れた。
カストルは、食器の音が止むのを待たずに立ち上がった。
胸の内は妙に硬かった。
課題のあとから、ずっと何かが居座っている。悔しさとも、苛立ちとも、言い切れぬ重さだった。前へ出たい。けれど、前へ出るだけでは足りないと知ってしまった。ならば何が足りないのか。その答えは、まだきれいな形で掴めていない。
ズヴォルタは、そんな彼を止めなかった。
食堂の出入口近くで腕を組み、通り過ぎる新入生たちをひと目ずつ見ている。厳格な仮寮兄の顔だった。
ただ、カストルが前を通る時だけ、低く言う。
「今日は、速く走ることより、戻ることを考えろ」
カストルは眉を寄せた。
「何ですか、それ」
「聞こえたままだ」
「意味が」
「自分で見ろ」
それだけで終わる。
いつも通り、不親切で、だからこそ頭に残る言い方だった。
実習棟の前には、すでに数十人の新入生が集められていた。
白い制服が列をなし、その中へ、寮ごとの空気の違いだけが薄く滲んでいる。クレイスの者たちは肩の線が固く、ジェスルは視線がせわしない。リチェルカの生徒たちは妙に静かだった。周囲を見ているのに、落ち着いている。計算の早い者の沈黙だと、カストルは何となく思った。
その中に、一人、印象に残る少年がいた。
灰青の瞳。
整えすぎぬ黒髪。
痩せているわけでも、華奢なわけでもないのに、無駄な力が入っていない立ち方をしている。胸元の仮印はリチェルカ。名札には「セヴェロ」とある。
彼は、周囲のざわめきの中で一度も声を荒げず、それでいて一番よく全体を見ているように見えた。視線が壁、窓、入口、集められた人数、教員の手元と順に滑り、最後に床の砂の跡まで拾っていたからだ。
もう一人、別の意味で目立つ生徒もいた。
純白の制服に、わずかに異なる紋章の仮印。
特別寮。
中等部生徒の中でも、特に別格の扱いを受ける者たちの一人だと、見れば分かる。高等部の監督生や監督弟の周囲にいるあの特別生徒たちとも少し違う、もっと選り分けられた気配がある。
その少年は、浅い金髪をきちんと撫でつけ、琥珀の目で新入生たちを静かに見ていた。名はレオニード。
視線に圧がある。
だが威圧ではない。
相手を見定める側の目だった。
やがて教員が現れ、今日の試験内容が告げられた。
訓練場外れの旧給水路跡地へ向かい、所定の道具を回収し、制限時間内に実習棟まで持ち帰る。
ただし、道中には意図的に遠回りの導線、重量配分の偏った荷、急な斜面、狭い通路が混ぜられている。力だけで押し切れるようにはできていない。
しかも班ごとではない。
途中で一時的な混乱が発生することも想定されている。
聞いた瞬間、カストルの胸の内へ、熱が沸いた。
要するに、前へ走りたい者を試すための設えだ。
そしてそれは同時に、前へ走りたいだけの者を落とすための設えでもある。
旧給水路跡地は、見た目ほど穏やかな場所ではなかった。
乾いた石壁のあいだに、古い水路の名残が折れ曲がって続いている。ところどころ崩れ、幅が狭くなり、足場も均一ではない。春先の風は上を抜けるのに、下へ降りると空気がひやりと重くなる。
新入生たちは、指示に従って道具箱や水量計、古い鉄具の束などを回収していく。持ち上げるだけなら簡単なものもあれば、見た目より重いものもある。
カストルは、自分より大きな鉄具の束へ真っ先に手を伸ばした。
重い。
だが持てないほどではない。
むしろ、この重さを抱えたまま戻れたなら、それだけで何かを証明できる気がした。
「待って」
横から声が飛ぶ。
リチェルカのセヴェロだった。
「それ、右に重心が寄りすぎてる」
「だから何だ」
「このまま上がると、三つ目の急斜面で腕ごと持っていかれる」
「持っていかれない」
カストルは短く切った。
セヴェロは眉一つ動かさない。
「きみが落とすんじゃない。きみが耐えたせいで、次に渡された者が落とす」
「……」
その言い方が、気に障るほど正しく聞こえた。
カストルは舌打ちを飲み込み、鉄具の束を持ち直す。だが持ち直したところで、重いものは重い。肩へ食い込む鈍い痛みがすぐに伝わる。
そこへ、別の手が伸びた。
特別寮のレオニードだ。
彼は無駄なことを言わず、鉄具の下側だけを支えた。
「片側だけ持て」
「一人で持てる」
「持てるかどうかは聞いていない」
声は静かだ。
けれど拒みにくい。
「速く着いても、壊したら減点だ」
それは教員が言いそうな言葉だった。
いや、教員よりもっと冷たく、結果だけを見ている者の言い方だった。
結局、カストルは右側だけを担ぐ形になった。
その判断が正しかったことは、最初の坂を越えたところですぐ分かった。
足場が悪い。
風は抜けない。
学園の通路のように整えられた床ではなく、乾いた石と細かな砂が靴の裏でずれる。
それでもカストルは前へ出ようとした。身体が先にそう動く。支えたまま、先頭を取りに行きたがる。
「前に出すぎるな」
今度はレオニードが言う。
「道が狭い」
「分かってる」
「分かってる顔ではない」
腹立たしい。
だが、その腹立たしさの間にも、息は少しずつ上がっていく。
二つ目の角を曲がったところで、班の流れが一度詰まった。
前方で誰かが荷を引っかけたらしい。
足を止めた瞬間、カストルはようやく自分の呼吸が他より荒いことに気づいた。腕はまだ動く。足も止まっていない。だが胸の内側が、少し早く焼け始めている。
この感覚には覚えがある。
無理が先に走り、身体があとから追いつかなくなる時の感覚だ。
それでも、止まりたくなかった。
前方の詰まりが解けた瞬間、カストルはほとんど反射的に一歩前へ出た。
その勢いで、足元の砂が崩れる。
身体は持ちこたえた。
だが右肩へかかった荷が僅かに流れ、鉄具が石壁へぶつかって鈍い音を立てた。
大きな破損ではない。
けれど、もしレオニードが反対側を支えていなければ、たぶんそのまま滑り落ちていた。
静まり返ったのは、ほんの一瞬だった。
その一瞬が、カストルにはひどく長く感じられた。
「……だから言った」
セヴェロの声が後ろから飛ぶ。
責める調子ではない。
そのことが、かえって惨めだった。
カストルは返事をしなかった。
返せば、声が乱れる。
乱れた声を聞かれるくらいなら、黙っていた方がましだ。
だが、その沈黙は容赦なく自分へ返ってきた。
腕力は足りる。
意志もある。
前へ出たい気持ちも、人一倍強い。
それなのに、こういう時の自分は、前へ出たいからこそ全体を壊しかける。
クレイスの前線に立つ者とは、本来、違う。
その事実が、ざらついた砂の斜面の途中で悔しさが沁みてきた。
実習棟へ戻りきった時には、カストルの額には汗がにじんでいた。
春先の冷えた風の中でかく汗は、妙に体温を奪う。
それでも彼は、最後まで荷から手を離さなかった。
離せば、今の自分に残るものが何もなくなる気がしたからだ。
教員たちは、荷の状態と到着時間だけを淡々と記録していく。
褒めもしない。
叱りもしない。
ただ記す。
その無慈悲さが、今日はいつも以上に堪えた。
試験が終わり、実習棟の外へ出ると、夕方前の光がまぶしかった。
訓練場の土は白く乾き、風はまだ冷たい。
カストルは建物の影へ寄り、肩の奥の痛みをやり過ごそうとした。
そこへ、レオニードが来た。
「腕は」
「平気だ」
「そういうことは聞いていない」
特別寮の少年は、相変わらず静かな目でこちらを見る。
「痛みよりも評価を優先しているだろ」
「……」
カストルは反射的に言い返しかけて、やめた。
違う、と言い切れなかったからだ。
レオニードは続けた。
「きみは前へ出たい」
「悪いか」
「悪くない」
即答だった。
「ただ、前へ出ることと、前で持ちこたえることは別だ」
「……」
その言葉は、刃物より静かで、ずっと深く刺さった。
レオニードはもう、それ以上を言わない。
慰めるつもりもないのだろう。
ただ事実を置くだけ置いて、すっと踵を返す。
その後ろ姿を見送りながら、カストルは初めて、自分の中で何かが静かに折れる音を聞いた気がした。
クレイスが嫌いなわけではない。
むしろ憧れていた。
前線。
軍務。
真正面から立つ者たちの厳しさ。
それらは自分の怒りや矜持とよく噛み合うように思えた。
だが噛み合うことと、適していることは違う。
自分は、前へ出たいあまり、全体の呼吸を乱す。
耐えようとするあまり、持つべきものを壊しかける。
持ちこたえるべきところで、熱が先に走る。
その現実が、今はじめて、言い逃れのできない形で見えた。
しばらくして、セリノスが迎えに来た。
赤い髪が風に揺れている。
茶色の瞳はいつも通り静かだ。
だが、こちらの顔を見るなり、少しだけ歩みを緩めた。
「終わった?」
「……終わった」
それだけ言うと、セリノスは何も訊かなかった。
訊かなかったが、並んで歩き始める。
寮棟へ戻る道の途中で、学園棟の窓から別の生徒たちの姿が見えた。
リチェルカのセヴェロが、ノートに何かを書きつけながら歩いている。
ああいう者は、今の試験ひとつからでも、重量の配り方や人の呼吸を拾うのだろう。
特別寮のレオニードは、すでに別の上級生と並んでいた。
振る舞いに無駄がない。
持つべき時に持ち、引くべき時に引く。
あれはたしかに、普通の寮の気質だけでは収まらぬ者の立ち方だった。
カストルは、その二人を見て、余計に何も言えなくなった。
夕方、クレイス棟の中庭には薄い風が流れていた。
噴水の水音が小さく響き、白い壁に落ちる影は長い。
七人部屋へ戻ると、ズヴォルタがいた。
いつも通りの顔。
いつも通りの厳しさ。
だがカストルが入ってきた瞬間、その目だけが一度、ひどく静かになった。
「そういう顔をしている時は、大抵、自分で答えを見た時だ」
低く落ちる声。
カストルは立ったまま、拳を握った。
「……クレイスにいたいです」
言ってから、自分でもその順番がおかしいと思った。
“向いている”より先に、“いたい”が出た。
それがもう答えなのかもしれない。
ズヴォルタは頷かない。
否定もしない。
「いたいことと、残るべきことは違う」
その一言が、今度は逃げ場なく落ちる。
カストルは唇を噛んだ。
怒りではない。
悔しさとも少し違う。
認めたくない現実が、ようやく名前を持ち始めた時の痛みだった。
「お前は前に出たがる。前に出る覚悟もある」
「だが、前で持ちこたえる者の呼吸ではない」
ズヴォルタは机の端に手を置いたまま続ける。
「それは劣っているという意味じゃない」
「違う場所で生きるという意味だ」
その言葉で、カストルはようやく視線を落とした。
床板の木目がぼやける。
泣くわけではない。
泣くほど子どもではない。
けれど、胸の奥で長くしがみついていたものが、静かに手を離していく感覚だけはあった。
セリノスは、少し離れた自分の机の前で、その会話を邪魔しないように立っていた。
何も言わない。
ただ、今夜だけは月が出ていれば、自分はいつもより長く窓辺に立つだろうと、そんなふうに見えた。
夜になると、学園棟の上階にいくつも灯りがともった。
名簿が運ばれ、記録がめくられ、白い制服の行先が少しずつ決まっていく。
そのどこかに、自分の名もある。
カストルは寝台へ腰を下ろし、ようやく静かに目を閉じた。
クレイスを去ることになる。
その現実は、まだ胸の中で完全に形を結んではいない。
けれど、今日の訓練場で、自分はもう知ってしまった。
知らなかった頃には戻れない。
前へ出たい。
それでも前線の者ではない。
その矛盾ごと抱えて生きていくしかないところへ、自分は振り分けられるのだろう。
外では風が中庭の木々を揺らしていた。
その音は、慰めにも励ましにもならない。ただ、季節が次へ進んでいることだけを、静かに告げていた。




