40.女の闘いの始まり
成婚して以降、〝おはよう〟から〝おやすみ〟まで、アリスタルフと一緒にいる時間が増えた。とはいえ、当然四六時中一緒にいるわけではない。執務が休みの日は、お互いに思い思いのことをして別々に過ごすこともある。自室で身支度を整えながら、ラリーサはのんびりと休日の過ごし方を思案する。
アリスタルフは、一日、軍の訓練場で体を動かすと言っていた。正直、羨ましい限りだ。ここ最近、執務に追われて体を動かすことをしていない。確実に、体は鈍っているだろう。明日は、キリルに付き合ってもらって、剣の鍛錬でもしようか。〝イサーク様も誘ってみようかしら〟などとつらつらと考えいれば、侍女の手によりいつの間にか身支度は整っていた。
今日のドレスは平素よりも少しだけ華やかだ。寒色の濃い色目のものを好むラリーサだが、鏡に映る自分が身に着けているのは寒色だが、柔らかな灰みがかった淡い青い色のドレスだ。ラリーサ自身はあまり選ばない色味だ。
「あら。こんなドレスあったかしら?」
軽く首を傾げたラリーサに、マルファとカルロッタがにっこりと笑みを深めて〝アリスタルフ陛下から贈られたものです〟と告げる。
「まぁ。アル様ったら、何時の間に?」
ふわりと軽く見えるスカート部分を両手で広げ、ラリーサは鏡の前でくるくると左右に回って己の姿を確認する。Aラインのシルエットは、スカート部分にそれほどボリュームがなく、動きやすい。ビスチェ風のネックラインに、透け感のあるチュール生地で丸みのあるロングスリーブが重ねられている。ナチュラルだが、ロマンティックな雰囲気のドレスだ。
「陛下が、落ち着いた色目ならば、淡い色のドレスも似合うだろうとおっしゃっておりましたよ。商人が持ち込んだサンプルの布を長い時間かけて選んでおりました」
マルファの言葉に、ラリーサが〝なぜ、マルファが知っているの?〟と苦笑する。
「恐れながら、陛下から助言を求められ、同席させていただきました」
「あらあら、まぁ」
〝いったい、何時の事かしら〟と小さく笑声を溢して、ラリーサは再び鏡の中の己へと視線を戻すと〝気に入りました〟とにこりと笑みを深める。
「アル様に御礼をしなければなりませんね。何か贈りたいのだけれど……いったい、何がいいかしら?」
〝タイピンやカフスといったアクセサリーがいいかしら?それとも、タイやチーフといった小物がいいかしら?〟と、鏡の前で思案し始めたラリーサに、マルファとカルロッタが微苦笑を浮かべ、〝考え事は後にしてくださいませ〟と告げる。
「本日は、どのようにお過ごしになられますか?」
マルファの尋ねに、鏡の前からソファーへと移動したラリーサは〝そうねぇ〟と右手の人差し指を己の顎へと添える。しばし視線を部屋の天井へ向けた後、ラリーサは〝少し、後宮内を散策してみようかしら〟と告げる。成婚し、アリスタルフの〝正妃〟として立后した後は、すぐに政務に着手したため、実は後宮を見て回ることがまだ出来ていないのだ。
「侍女や下女たちが、無理なく働けているかどうか見ておきたいし」
ラリーサの言葉に、マルファとカルロッタが〝畏まりました〟と頭を垂れた。
◆◆◆
皇族の専属となっていようがいまいが、侍女や下女を取りまとめているのは〝侍女長〟という役職に就く侍女のトップだ。ラリーサが後宮入りした際に顔合わせを済ませているが、どちらかというと侍女長はジャンナ皇妃寄りの人間のように思う。キーラがラリーサの意向を伝えに言った際、侍女長は〝どうぞご自由に〟と言っただけで大して気にも留めなかったらしい。まぁ、誰についていようが、仕事さえしっかりやってくれていれば問題ないのだけれど。
後宮の中では〝妃〟たちとの勢力争い、外に出れば皇太后派や第4皇子派との勢力争い。いやはや、人はどうしてこうも争いが好きなのか。
「……疲れるだけだと思うのだけれど」
ついポロリと口から零れてしまった軽い愚痴。小さな声だったこともあり、マルファやカルロッタ、護衛騎士たちは聞こえなかったふりをしてくれる。
私室を出て、ラリーサは〝さて、どう回ろうか〟と思案する。後宮といっても、それなりに広い。先帝のスピリドンも、アリスタルフも妃の人数は比較的少ない方なので、使われていない部屋も多くあると聞いている。とはいえ、掃除は必要なのだから、現在の後宮の規模を維持するためにそれなりの人件費がかかっているということだ。
「アル様は、後宮の縮小について考えていないのかしら。空いている部屋をうまい具合に活用できればいいのだけれど……」
〝どう思う?〟とラリーサは、カルロッタへ意見を求める。
「……皇妃や側妃の人数は、その時の皇帝によって変わりますから。なんとも……」
困ったように苦笑したカルロッタに、ラリーサが〝そうよねぇ〟と小さく息をつく。
「でも、使っていない部屋を掃除するだけでも大変でしょう。別に、侍女や下女たちの働き口を減らしたいわけではないのだけれど……」
〝活きた使い方をしたいのよねぇ〟と思案しながら歩くラリーサに、マルファが〝リーサ様、しっかりと前を向いて歩いてくださいませ〟と嗜める。それに〝わかってます〟とラリーサが笑う。そして、〝まずは、使われていない部屋がどの程度あるか、見に行きましょうか〟と告げた――その時だった。ちょうどT字になっている通路の角から、一人の下女が飛び出してきて、ラリーサと軽く接触した。
「リーサ様っ」
僅かに後ろにたたらを踏んだラリーサの身をマルファとカルロッタが支えてくれる。
「大丈夫ですか?」
カルロッタの尋ねに、ラリーサは〝問題ないわ〟とニコリと笑みを返す。
「それよりも、あなたは大丈夫?」
ラリーサは、己の前に飛び出してきた下女へと声をかける。顔面を蒼白にして廊下にしゃがみ込んでいる下女は、油の入った壺を震える手で抱き締めている。ラリーサとぶつかりバランスを崩した際に壺の中の油が跳ねたのだろう。床にところどころ飛沫が飛んでおり、あろうことかラリーサのドレスの裾にもいくつか染みが出来ていた。
「あ、ぁ、も、もうしわけ、ありませ……っ」
震える声音で謝罪を紡ぎ、下女は抱えていた壺を脇へ置くと床に額を擦り付けるように頭を下げる。
「あなたは、何をしているのです!」
厳しい声音で叱責するカルロッタに、ラリーサは〝別に怪我をしたわけでないのだから〟と微苦笑を浮かべて窘める。それに、〝そういうことではありませんっ〟と首を横に振り、カルロッタは蹲るようにして身を震わせる下女を見据える。
「なぜ、このような場所で油の入った壺など持っているのですか?」
カルロッタに詰問され、侍女はさらに顔面を蒼白に変え、〝そ、それは……〟と口籠る。確かに、後宮内を油の壺を持って歩き回るなど、不自然以外の何物でもないだろう。壺の中の油を見るに、おそらくは夜更けに明り取りのために使われるランプ用のものだろう。通常、灯り用の油は下女が侍女たちの休憩室へと運び入れ、侍女たちが必要な分をランプに補充する形をとっている。
〝ふむ〟とラリーサは、平伏したまま身を震わせる下女を見つめる。角から飛び出してきた彼女は、誰かに背を押されたかのように些か前のめりになっていたのように思う。軽くとはいえ、ラリーサとぶつかった時、まるでそれがわかっているかのように壺を強く抱きしめたようにも見えた。そのおかげで、壺の中の油は僅かに飛沫が飛び散り床とラリーサのドレスをほんの少し汚すのみで留まったのだろう。不意打ちでぶつかった場合、もしかしたら壺が彼女の手から滑り落ち、大惨事になっていた可能性もある。
ラリーサは一旦下女から視線を外すと、ぐるりと周りを見回した。チラリと背後を見やれば、護衛についていたキリルが〝承知しました〟というように頷き、大股で数歩前へ進むと、下女が飛び出してきた方へ視線を巡らせる。そして、僅かに眉根を寄せたキリルがラリーサの方を向き、〝ジャンナ皇妃殿下がこちらへいらっしゃいます〟と告げた。
「あらあら。ならば、床に油が散っているのはよくないわね。すぐに掃除をしてくれるかしら?」
そうマルファへ指示を出し、ラリーサは〝ほら。あなたも立って〟と座り込んでいる下女へ笑みを向ける。
「大丈夫よ。ほんの少しドレスの裾に飛んだだけだし。大した事じゃないわ」
ラリーサの言葉に、カルロッタが〝また、そのように甘いことを〟と眉を寄せて溜息をつく。
「まぁ、いいじゃないの」
にこりと笑みを深め、〝ほらほら。まずは床を綺麗にしないと〟と告げたラリーサに、平伏していた下女が〝す、すぐにっ〟と、己が身に着ける下女の制服のスカートで廊下を拭き始める。飛び散った油は僅かであったため、すぐに見た目は綺麗にはなったが、後程改めて拭き掃除をさせた方がいいだろう。そんなことを思っていれば、大勢の侍女を引き連れたジャンナが通路の角で立ち止まった。
「あらあら。ラリーサ陛下。このようなところで何をなさっておいでなのですか?」
扇で口元を隠し、にっこりと笑みを浮かべたジャンナに、ラリーサは〝現状把握のために、少し後宮内を歩いて回ろうかと思いまして〟と微笑みを返す。
「考え事をしながら歩いておりましたら、うっかり下女とぶつかってしまいましたの」
〝私の不注意ですわね〟とすまなそうに下女へ視線を向けたラリーサに、ジャンナは〝それは災難でしたわね〟と含みのある声音で告げ、視線を油の飛沫で汚れたラリーサのドレスへと向けた。
「まぁ!大変!ドレスが汚れてしまっているじゃありませんか」
わざとらしく声を上げたジャンナに、件の下女がビクリと小さく身を震わせる。
「お前はどこの下女なの?」
ジャンナの尋ねに、下女は〝わ、私は、数日前から、後宮での仕事に……〟とか細い声で言葉を紡ぐ。
「あら、そう。ならば、後宮内の約束事がわかっていなくても仕方がないわね」
〝そうでしょう?ラリーサ陛下〟と含みのある笑みを向けてきたジャンナに、ラリーサは心の中で溜息をつく。そして、俯き震える下女へと視線を落とすと〝可哀想に〟と眉尻を下げた。おそらくだけれど、この下女はスケープゴートにされたのだろう。何かしらラリーサに嫌がらせをしたくて、仕組んだことなのだろうけれど――どうにも稚拙が過ぎる。だれが考えたことなのだろうか。
「そうですね。私も怪我をしたというわけではありませんし」
〝大事にするつもりはありません〟と続けようとしたラリーサの声を遮るように、ジャンナが〝でも〟と口を開く。
「皇后陛下のドレスを汚したのだもの。不問にするというわけにはいきませんわよね?」
にっこりと微笑んだジャンナに、ラリーサは心の中で再び溜息をつく。要するに、下女を罰しろということか。ラリーサ自身、下女を罰するつもりなどない。とはいえ、この後宮で最上位に立つ者を〝害した〟と言われてしまえば、皇后として罰を与えないわけにはいかないということも一理あるといえばあるのだ。
さて、どうしたものかとラリーサは思案する。そして、しばし間を置いた後〝まぁ、そうですねぇ〟と告げ、ラリーサはマルファとカルロッタの後ろに控える侍女の一人の名を呼んだ。
「ミリアリア」
「はい。ラリーサ陛下」
「罰として、本日今この時より、あの下女を期間限定で私の〝専属下女〟とします。私のドレスを汚した罰として、私が〝よい〟というまで私の衣服は、全てあの者に洗わせなさい」
〝いいですね〟と告げたラリーサに、侍女が〝畏まりました〟と腰を折る。
「は?ラリーサ陛下の専属下女ですって?そのようなこと、罰になりませんっ」
僅かに語調を乱したジャンナに、ラリーサは〝あら、なぜ?〟と首を傾げて見せる。
「期間限定とはいえ、私の衣服は全てあの者に洗わせるのですから。〝専属〟と言っても差し障りないでしょう?」
〝何か問題が?〟と、ラリーサは不思議そうな顔を作って見せる。
「マルファ、カルロッタ。何か問題あるかしら?」
ラリーサの尋ねに、マルファは〝陛下の御心のままに〟と頭を下げ、カルロッタもまた僅かに不満の色を浮かべてはいるが、反論をするようなことはなかった。
「では、そういうことで」
にっこりとジャンナへ笑って見せて、ラリーサは〝一度、部屋に戻りましょうか〟と侍女と護衛騎士たちへ声をかける。
「出来れば、アル様にドレス姿をお見せしたかったのだけれど……」
〝着替えなければならないのが、残念ね〟と、ラリーサが溜息をつく。
「汚れは、綺麗に落ちるかしら……せっかく陛下が贈ってくださったのに」
ラリーサの言葉に、ピクリとジャンナが反応する。
「アル様に報告はしないといけないかしらね、やっぱり。アル様から罰の追加を言われてしまった場合は、侍女を通して改めて申し付けます」
〝よいですか?〟と問うたラリーサに、侍女は深々と頭を下げる。
「しょ、承知いたしました……っ」
「じゃあ、ミリアリア。彼女のことは、任せるわね」
「かしこまりました」
侍女を一人残し、ラリーサはゆっくりと踵を返す。
「では、ジャンナ様。ごきげんよう」
ゆったりと優雅な身のこなしでその場から去るラリーサを、ジャンナが苦々しい表情で見送る。そうしてから、ジロリと床に蹲る下女を睨み据えると〝この役立たずっ〟と小さな声で吐き捨てた。




