旅立ちの準備
ドグラスから教えてもらったレシピと知識のメモをまとめ終えて、エリスはため息をついた。この村について三か月。マルガレータからそろそろ旅に出なきゃと急かされてから、なんだかんだとやっているうちにあっという間に二週間が過ぎていた。明日も朝から仕込みがある。早く寝ないと、とエリスが立ち上がったときに、部屋の扉を叩く音がした。
「エリス、まだ起きてるかい?」
「はい。そろそろ寝ようかと思ってましたけど……何か御用ですか?」
「ああ、ちょっと話があるから降りておいで」
アンネに声をかけられて、エリスは不思議に思いながらも階段を下りてついていった。お客さんのいなくなった美食亭は、少し薄暗く静かだった。真ん中のテーブルにドグラスが待っていた。アンネはエリスを座らせると、残っていたベリー水を出してくれた。
「話、ってなんですか」
「そろそろ、だと思ってな」
それが旅立ちの話だということはすぐにわかった。二人の目はあたたかく、エリスを包み込むようであった。
「……気が付いていたんですか」
「いや、私たちも、そろそろ送り出してやらなきゃと思っていたところに、マルガレータが怒鳴りこみに来てね」
いつまでエリスをこんな田舎に留めているつもりだ、とエリス用に仕立て直した服を持ち込んで、二人に説教をしていったのだという。元気の良すぎる病弱な友人の姿を想像して、エリスは小さく苦笑いをした。出るのを躊躇っていたのは、エリス自身でもあったからだ。
「時期もいい。そろそろアウメリンコの町へ向かうといい。ちょうどイェンスが出稼ぎのために村を出る。一緒に行くといいだろう」
安全という意味では必要ないが、町に溶け込むために必要な知識をイェンスに一通り教えてもらうといいだろう、そう言ってドグラスは笑った。最初にここに来た時のウサギの皮を思い出す。今はマルガレータが加工して素敵な帽子にしてくれてある。
アウメリンコと聞いてエリスは目を輝かせていた。旅人の手記にも書いてあった。大きな港があり、海という魚がたくさん獲れるものがあるのだという。川よりもずっと広いのだとイェンスも言っていた。
「アウメリンコ……海辺の街ですよね? ここよりもたくさんの種類の魚があって、どれもおいしいっていう!」
「そう。ここで教えられることは、もうない」
「アウメリンコも基本はここと似たような料理を出す。ドグラスが昔修行してた店に連絡を取ってくれているよ。魚の目利きの仕方だけ教えてもらったら、すぐに海を渡るといい」
アンネがにっこりと笑う。いつの間にそんなことをしてくれていたのだろう、と思うとエリスは胸がいっぱいになった。やっと慣れてきた村だけれど、世界一の料理人になるにはじっとしてはいられない。この村の近くの町も早めに離れなければいけないだろう。
「海を渡る……」
「ユバーミーアはここではあまり出なかった肉料理が多い。その隣のキュイワールは美食で有名な国だ。住むだけで勉強になる」
「ああ! それは食べたい!」
旅人の手記で読んでずっと憧れていた国の名前が出て飛びついたエリスに、アンネとドグラスは顔を見合わせて笑った。
「やっぱりあんたはどんどんいろんな場所へ行ったほうがいいよ!」
「これは餞別であり給料だ。三か月よく働いてくれた」
ドグラスはエリスの両手にちょうど乗りきるくらいの大きさの袋を取り出した。その袋が立てた音で、中身が硬貨であることにエリスはすぐに気が付いた。
「そんな、いただけません! 私、教えてもらってばっかりだったのに」
「旅費が必要だろう。下働きで稼いで、旅費が貯まったら次の町へ行く。そういう風にしないと、世界を食べ尽くすのは難しい」
ドグラスはエリスに袋を手渡した。その重みが、エリスには実際のもの以上にずしりと感じられた。
「下働きで旅費を貯めて、次の町へ……」
「ああ。またいつかここに帰ってきたら、美味しいものを食べさせておくれ」
「イェンスが発つのは三日後だ。用意しておきなさい」
じゃら、と音を立てる袋をぎゅっと握りしめる。ここでの楽しい三か月間は、この夫婦が良くしてくれた賜物だった。深い感謝の念で、そのままエリスは深々と頭を下げた。




