第9話 信じた上で
「ええ。一言残らず」
即答だった。
考える間も、ためらう気配もなかった。私が問い終えるより早く答えが返ってきたような気さえした。
馬車の車輪が石を踏んで、小さく跳ねた。
「……あの」
「うん」
「信じた、というのは」
「言葉のとおりだ」
彼は書類を膝に置いて、こちらを見た。
「あの聖女候補は、あなたが数万を焼き殺した魔王だと言った。私はそれを信じている」
心臓が、遅れて動いた。
とん、と一度大きく打って、それから速くなった。
「……本気で、おっしゃっていますか」
「本気でないことは、言わない」
「あの、アルヴィス様。あれは、その」
言葉が空回りした。
否定しようとしたのだ。ただの罵倒です、と。誰もが受け取ったとおりに、詩的に過ぎる悪口です、と。そう言えば、この会話は終わる。
「――事実か」
彼が、静かに問うた。
私の口が、止まった。
嘘を、と思った。ここで否定すれば済む。
けれど。
蒼氷の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。あの目に嘘を置くことを、私の身体が拒んだ。
長い沈黙のあと、私は言った。
「……はい」
「そうか」
彼は頷いた。
それだけだった。
・ ・ ・
馬車は進み続けた。
窓の外を、麦の畑が流れていく。刈り入れ前の穂が風に揺れて、金色の波を作っている。
彼は、何も言わなかった。
書類に戻ることもなく、私を見つめることもなく、ただ静かに座っていた。
――なぜ。
十を数えるあいだ待った。二十を数えた。それでも何も起こらなかった。
私の指先が震え始めた。
「……何か、おっしゃってください」
「何を」
「何でも」
私は膝の上で拳を握った。
「怖い、でも、恐ろしい、でも構いません。おぞましいと、そう言ってくださって構いません。むしろ――」
そう言ってくれた方が、ずっと楽だった。
十七年、私はそれに慣れている。人が私を見て身を引く顔なら、飽きるほど見てきた。あれは私が受け取るべきものだ。慣れた重さだ。
「――むしろ、そう言ってください」
「なぜ」
「なぜ、って」
「なぜ、私にあなたを責めさせようとする」
私は言葉を失った。
彼は続けた。
「あなたは今、私に罰を求めている。違うか」
「……それは」
「あなたは自分を赦していない。だから、誰かに責めてもらわないと座りが悪い。私が何も言わないと、あなたは宙に浮いてしまう」
図星だった。
あまりにも正確に言い当てられて、私は反論の材料すら見つけられなかった。
「私は、それをしない」
彼は言った。
「あなたを責める役は、引き受けない」
「なぜですか」
「私に、あなたを裁く資格があるとでも?」
・ ・ ・
その一言に、私は引っかかった。
強く、引っかかった。
裁く資格。
普通、そういう言い方はしない。人を裁かないと決めた人間は「裁くつもりはない」と言う。「資格がない」とは言わない。
資格がない、というのは。
――自分も同じだと、知っている者の言い方だ。
「アルヴィス様」
「うん」
「あなたは、何を」
「言えない」
彼は微笑んだ。
穏やかで、完璧で、非の打ちどころのない微笑だった。そして今の私には、それが分厚い扉のように見えた。
「今はまだ、言えない。すまない」
・ ・ ・
だったら、と私は思った。
だったら、確かめるべきことがある。
昨夜、寝台の中で三つ数えた可能性の、三つ目。
「では、質問を変えます」
「どうぞ」
「わたくしの、力が目当てですか」
彼の眉が、初めて動いた。
「聞いてください。わたくしは、隠すのが下手です。ご存じかもしれませんが、剣も魔力も、前世のものをそのまま持っています。使おうと思えば、たいていのことはできます」
言いながら、喉が渇いていくのが分かった。
「大陸最強の帝国が、小国の令嬢のために国を傾ける理由。わたくしに思いつくのは、それだけです。もし――」
「違う」
短く、鋭かった。
初めて聞く声の質だった。
「もし、そうだとしても」
私は続けた。止まれなかった。
「わたくしは、構いません。父と母が無事なら、それで。ですから、正直に――」
「ヴィオレット」
名を呼ばれた。
初めて、敬称なしで呼ばれた。
私は口を閉じた。
彼は身を乗り出して、私の目を見た。近かった。逃げ場がないほど近かった。
「私は、あなたが二度と剣を握らずに済む世界を作りたい」
「え」
「あなたが戦う必要のある場面には、私が先に立つ。あなたの魔力が要る事態には、そもそも至らせない。もしそれでも、あなたが力を使わねばならない日が来たなら――それは、私の失敗だ」
私は、息をするのを忘れていた。
「あなたの力が欲しいのではない」
彼は言った。
「あなたが、力を使わずに笑っていられるところが見たい」
・ ・ ・
私は、何も言えなかった。
言葉というものが、こんなに簡単に消えてなくなるとは知らなかった。
「では」
やっとのことで、声を絞り出した。
「では、なぜ、わたくしなのですか」
彼はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと座り直した。
「ひとつだけ、言える」
「……はい」
「私は、あなたが何をした存在か知っている」
麦の畑が、まだ流れていた。
「知った上で、あなたが欲しい」
・ ・ ・
胸の奥で、何かが軋んだ。
嬉しかったのだと思う。たぶん、生まれて初めて、私は誰かに丸ごと欲しがられた。前世でも今世でも、そんなことは一度もなかった。
けれど。
同じくらい、苦しかった。
なぜなら――それは、赦しではないからだ。
この人は、私の罪をなかったことにしていない。軽いとも言っていない。事実だと認めた上で、それでも欲しいと言っている。
つまり、罪は罪のまま、そこにある。
私はそれを抱えたまま、この人に望まれてしまう。
「……ずるい」
思わず、そんな言葉が漏れた。
「ずるい、です」
「そうかもしれない」
彼は否定しなかった。
「それでも、言わないという選択肢は、私にはなかった」
私は俯いた。
目の奥が熱くて、顔を上げられなかった。泣いてはいけないと思った。泣く資格がない。私は数万を焼いた人間で、この人は何も知らないまま、いや、知った上で――
「ヴィオレット」
「……はい」
「泣いてもいい」
「泣きません」
「そうか」
彼は、それ以上何も言わなかった。
代わりに、そっと箱をひとつ差し出した。
蜂蜜色の焼き菓子が、まだ半分残っていた。
私はそれを受け取って、俯いたまま、ひとつ口に入れた。
甘かった。
腹立たしいほど、甘かった。
・ ・ ・
その時だった。
馬車が、急に速度を落とした。
外から、鋭い笛の音がした。三つ。短く、短く、長く。
私は顔を上げた。
――知っている音だ。
前世で、幾度も聞いた。斥候が最初に鳴らす、警戒の合図。
アルヴィス様の表情から、微笑が消えていた。
「……早いな」
「アルヴィス様、これは」
答えは、外から来た。
森の奥から、腹の底を叩くような低い咆哮が響いた。
一つではなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
ヴィオレットはついに、胸の奥に抱え続けてきた問いをアルヴィスへぶつけました。
そして返ってきたのは、罪を否定するでも、忘れさせるでもない――それでも共に歩みたいという、まっすぐな答え。
しかし、二人がようやく本音を交わし始めたその矢先、旅路には新たな脅威が迫ります。
響いた警戒の笛、森の奥から聞こえる咆哮。
その正体とは――。
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