第8話 馬車の中の距離
翌朝、馬車に乗り込んだ私は、座席の向かいに積み上げられたものを見て固まった。
箱だった。
淡い色の紙で包まれ、細い金糸のリボンで結ばれた、上品な箱。それが十五、いや、二十はある。座席の半分を占領して、天井近くまで積み上がっている。
「……アルヴィス様」
「おはよう。よく眠れたか」
「これは」
「焼き菓子だ」
彼はごく当たり前の顔で言った。
「昨夜のうちに手配させた。この街道沿いで評判の店を六つほど当たらせて、それぞれの看板の品を揃えてある。詰め合わせにすると当たり外れが出るので、単品で買わせた」
「……六つ」
「足りなかったか」
「多いのです」
「そうか」
彼は少し考えて、頷いた。
「では、次の宿場でもう少し買わせよう」
「そうではなくて!」
・ ・ ・
結局、箱は三つに減らしてもらった。残りは後続の荷馬車に移された。
私は膝の上に小さな包みをひとつ載せて、途方に暮れていた。
「食べないのか」
「……いただきます」
蓋を開けると、蜂蜜色の焼き菓子が並んでいた。表面に粗い砂糖が散らしてあって、甘い香りが立ちのぼる。
ひとつ摘まんで、口に入れた。
――おいしい。
軽くて、さくりと崩れて、後から蜂蜜の香りが来る。屋敷で出るものより素朴だが、そのぶん素直な甘さだった。
思わず、二つ目に手が伸びた。
そこで我に返った。
人前だ。令嬢は人前で三つ以上食べない。母から教わったわけではないが、社交界を観察してそう結論づけた。皆、優雅に一つか二つしか食べていない。
私はそっと手を引っ込めた。
「なぜやめる」
「……はしたないので」
「誰が決めた」
「え」
「誰かに、そう言われたことが」
私は言葉に詰まった。
「……ございません」
「では、食べればいい」
彼は身を乗り出して、箱を私の方へ押した。
「あなたが甘いものを食べているところを見るのが、私は好きだ」
「――っ」
手が滑った。
正確には、滑ってはいない。私はそのとき、座席の縁を掴んでいた。
めきり、と音がした。
・ ・ ・
馬車が止まった。
外から御者の慌てた声がして、扉が開き、騎士が飛び込んできて、私は震える手で座席の縁を指した。
そこには、指の形にへこんだ木枠があった。
樫の一枚板だ。
「……申し訳、ございません」
「怪我は」
「ございません」
「そうか。よかった」
アルヴィス様は、心底ほっとした顔をした。
私は消えてしまいたかった。
十七年、この失敗を何度繰り返してきたか分からない。ティーカップ。扉の把手。刺繍の枠。父の書斎の椅子の肘掛け。そのたびに周囲が凍りつき、私は「あの令嬢は」と囁かれた。
だから、身構えた。
そして彼は、こう言った。
「よくあることか」
「……はい」
「では、次の宿で座席を替えさせよう。今度は鉄芯を入れたものにする」
「え」
「壊れると、あなたが気に病むだろう」
私は、彼を見た。
彼は何も特別なことを言った顔をしていなかった。窓の外を確認して、御者に「進めてくれ」と声をかけている。
――この人は。
私が壊したことではなく、私が気に病むことを心配している。
・ ・ ・
道中、彼はよく喋った。
いや、正確に言えば、よく尋ねた。
好きな花は。子どもの頃に好きだった遊びは。朝は早いほうか遅いほうか。寒いのと暑いのではどちらが苦手か。本は読むか、読むならどんなものを。
私が答えると、彼はそれをいちいち書き留めた。
「あの、それは何のために」
「覚えるためだ」
「覚えるだけなら、書かなくても」
「忘れたくない」
彼は真顔で言った。
「私は記憶力には自信があるが、あなたのことに関しては信用していない。取りこぼしたくない」
私はそのたびに、目のやり場を失った。
褒められるのにも慣れていない。優しくされるのにも慣れていない。この人はその両方を、一日に三十回くらいやってくる。
「……アルヴィス様は、恥ずかしくないのですか」
「何がだ」
「そういうことを、口に出すのが」
「なぜ恥ずかしい」
彼は不思議そうな顔をした。
「思っていることを言っているだけだ。言わなければ伝わらない」
・ ・ ・
夕方、宿場に着いた。
部屋に入るなり、シェラが荷を解きながら言った。
「お嬢様」
「なあに」
「あの男は、危険です」
「……唐突ね」
「あれは、断る余地を与えない類の人間です」
私は寝台の端に腰かけて、考えた。
「そうかしら」
「そうです」
「でもあの方は、嫌なら言えとおっしゃったわ。財産を持たせて好きなところへ送ると」
「言葉は、いくらでも」
「本気だったと思う」
シェラの手が、止まった。
「……なぜ、そう思われるのですか」
私は少し迷ってから、答えた。
「嘘をつく人は、言った後にこちらの顔を見るの。効いたかどうか確かめるために。あの方は、見なかった」
シェラは長いこと黙っていた。
それから、荷解きに戻った。
「……お気をつけくださいませ」
・ ・ ・
その夜も、私は眠れなかった。
寝台の中で天井を見上げて、ずっと同じことを考えていた。
――なぜ。
なぜ、この人は、私を求めるのか。
理由が思いつかない。
政略ではない。ノクスハイム公爵家は小国の一貴族で、大陸最強の帝国が国を傾けるほどの譲歩をしてまで縁を結ぶ価値はない。むしろ損だ。
美貌のため、とも思えない。私より美しい令嬢は帝国にいくらでもいるだろうし、何より彼は私の顔をそういう風には見ていない。もっと別の何かを見ている。
だとしたら。
――聞こえなかったのだろうか。
あの夜、あの会場で。
けれど彼は言った。一言残らず聞いていた、と。
聞いた上で、跪いた。
聞いた上で、焼き菓子を二十箱買った。
聞いた上で、私の好きな花を書き留めている。
――ありえない。
寝返りを打った。
もし本当に聞いていて、それでも私を求めるのなら、考えられる可能性は三つだ。
ひとつ。あの告発を、ただの罵倒だと思っている。この世界の常識ではそれが自然だ。
ふたつ。事実だと知っていて、それでも構わないと思っている。
みっつ。
――事実だと知っていて、そのために私を求めている。
三つ目を思いついた瞬間、背筋が冷えた。
魔王を、欲しがる人間。
前世でも、そういう手合いはいた。私の力だけを目当てに近づいてきて、私を兵器として使おうとした者たち。彼らはみな、最初はとても親切だった。
……いや。
違う、と思う。
思うけれど、確かめていない。
私は寝台から起き上がった。
窓の外は暗く、街道の宿場町は寝静まっていた。
・ ・ ・
翌朝、馬車に揺られながら、私はずっとその言葉を握りしめていた。
聞かなければ。
聞いて、はぐらかされたら、それはそれで答えになる。
向かいの席で、彼は今日も書類を読んでいる。私の視線に気づいて顔を上げ、いつもの微笑を浮かべた。
「どうした」
私は膝の上で拳を握った。
息を吸って、吐いて、もう一度吸った。
「――アルヴィス様」
「うん」
「あの夜、会場で」
彼の目が、わずかに動いた。
私は言った。
「あの告発を……信じましたか」
今回もお読みいただき、ありがとうございます(∩´∀`)∩
少しずつ距離が縮まる二人ですが、その一方でヴィオレットの胸には、新たな疑念が芽生え始めます。
アルヴィスの優しさは本物なのか。
それとも、前世の「魔王」を知ったうえで近づいているのか――。
次回はいよいよ、ヴィオレットがずっと胸に抱えてきた問いを、アルヴィス本人へとぶつけます。
その答えが、二人の関係を大きく動かすことになるかもしれません。
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それでは、第9話もよろしくお願いいたします!




