第7話 侍女シェラ
娘は、私の三歩手前で止まった。
息を切らせていたが、乱れていたのは呼吸だけだった。走ってきたはずなのに、髪も、襟元も、エプロンの結び目すら崩れていない。
「お待ちください」
もう一度、彼女は言った。
年の頃は二十歳前後だろうか。灰がかった栗色の髪をきっちりと結い上げ、公爵家の侍女服を着ている。目鼻立ちは整っているが、表情がほとんど動かない。
そういう顔立ちの人間を、私はもう一人だけ知っている。鏡の中に。
「……あなたは」
「ノクスハイム家に仕えております、シェラと申します」
彼女は膝を折って礼をした。教本の挿絵のような、寸分の狂いもない礼だった。
「お嬢様の御身の回りのお世話を、わたくしが仰せつかりました」
「聞いていませんが」
「先ほど決まりましたので」
シェラと名乗った侍女は、平然と言った。
「旦那様と奥様より、書状を預かっております。お嬢様おひとりで異国へ発たせるわけにはまいらぬ、と」
私は、鞄の紐を握りしめた。
昨夜、父と母には会えなかった。会わせてもらえなかったのではない。私が、会わないことを選んだ。
顔を見たら、何か言ってしまいそうだったからだ。言ってはいけないことを。
「……父上と、母上が」
「はい」
「お二人は、どのような様子でしたか」
シェラは少しの間、黙っていた。
「奥様は、ずっと泣いておいででした」
胸の奥が、鈍く軋んだ。
「旦那様は、泣いておられませんでした」
「そうですか」
「ただ、書状を三度、書き直しておられました」
私は、下を向いた。
・ ・ ・
「同行を許すかどうかは、私が決めることではない」
隣で、アルヴィス様が言った。
彼はいつの間にか一歩下がって、私とシェラのやりとりを眺めていた。会場に踏み込んできたときと同じで、余計な口を挟まない人だ。
「ヴィオレット嬢。あなたが決めるといい」
「わたくしが、ですか」
「これから先、あなたの傍に誰を置くかは、あなたの権利だ」
私は、シェラを見た。
正直に言えば、迷った。
見覚えのない顔だった。公爵家に長く仕えている者なら、私は全員の顔を覚えている。屋敷の使用人は四十人ほどで、名前と、得意なことと、苦手なものまで頭に入っている。
この人はいない。
「シェラ。あなたは、いつから公爵家に」
「一昨日からでございます」
「一昨日」
「はい」
即答だった。隠す気がまるでない。
「……なぜ、そんな方が」
「人手が足りませんでしたので」
会話になっていない。
私はもう一度、彼女の全身を見た。
そして、気づいた。
――重心が、低い。
侍女の立ち方ではない。あれは、いつでも動けるようにしている人間の立ち方だ。膝がわずかに緩んでいて、体重が土踏まずの後ろ寄りにある。三歩手前で止まったのも、たぶん偶然ではない。あの距離は、人を安心させつつ、いつでも詰められる間合いだ。
前世で、私の周りにはそういう立ち方をする者しかいなかった。
背中に、薄く汗が浮いた。
・ ・ ・
「シェラ」
「はい」
「あなたは、何ができますか」
「洗濯、裁縫、髪結い、湯浴みの支度。ひととおりのことは」
「ほかには」
「……ほかに、と申しますと」
「ほかに」
私は繰り返した。
侍女は、初めてわずかに目を細めた。
それは笑ったのではなかった。何かを確かめる目だった。
「毒見も、承ります」
「毒見」
「はい」
「なぜ、そんなものが必要だと」
「異国の宮廷にお入りになるのですから」
正論だった。正論すぎて、かえって答えになっていなかった。
私は息を吸って、吐いた。
――どうすべきか。
この人は、何かを隠している。それは間違いない。
けれど、悪意があるとは思えなかった。人の悪意というものを、私は嫌というほど浴びてきた。あれには特有の匂いがある。この人からは、しない。
代わりに、まったく別の何かがした。
近い匂いだ。
とても、近い。
「……分かりました」
私は言った。
「来てください、シェラ」
彼女は深く頭を下げた。
その所作もまた、非の打ちどころがなかった。
・ ・ ・
馬車が動き出した。
窓の外を、生まれ育った街が流れていく。パン屋の看板。噴水。子どもの頃に登って母に叱られた大樹。
もう戻らないかもしれない、と思った。
思ってから、意外なほど感傷が湧かないことに気づいた。前世で、私は根を張って生きたことがなかった。移動と占領を繰り返すのが日常だった。十七年住んだ土地を離れるくらいで、たぶん、私の心は動かないようにできている。
――嫌な発見だった。
向かいの席で、アルヴィス様が書類を読んでいた。
昨夜の礼服から、旅装に着替えている。それでも隠しようもなく上等な仕立てで、乗合馬車に紛れ込んだ王侯みたいだった。実際そうなのだが。
視線に気づいて、彼が顔を上げる。
「何か」
「いえ。……お仕事ですか」
「あなたを迎えるための書類だ」
「書類、ですか」
「宮の使用人の配置、警備の再編、あなたの部屋の内装、当面の献立の希望を聞き取る係の人選」
「……献立の」
「甘いものは好きか」
「え」
「果実の砂糖漬けは。あるいは焼き菓子か。両方でもいい」
私は答えに詰まった。
好きだ。とても好きだ。けれど令嬢としてはしたないと思って、人前で三つ以上食べたことがない。
「……焼き菓子が、少し」
「そうか」
彼は、それを書き留めた。
本当に、書き留めた。
・ ・ ・
日が傾いてきた頃、馬車は宿場町で止まった。
一行が休息の支度に散っていく。私は木立の陰に立って、帝国へ続く街道を眺めていた。
「お嬢様」
シェラが、いつの間にか隣にいた。
足音がしなかった。
「……ずいぶん、静かに歩くのですね」
「侍女の心得でございます」
「そう」
私たちはしばらく黙って、暮れていく空を見ていた。
「シェラ」
「はい」
「わたくしは、いい主人ではないかもしれません」
彼女は答えなかった。
「わたくしは、あなたが思っているような人間ではないの。もし知ったら、あなたはきっと――」
「お嬢様」
遮る声は、静かだった。
「わたくしは、存じております」
風が吹いた。
私は、彼女の顔を見ることができなかった。
「では、お夕食の支度にまいります」
シェラは礼をして、離れていった。
その背中を、私は見送った。
・ ・ ・
誰もいない木立の奥で。
侍女は立ち止まり、深く息を吐いた。
主が去った方角へ向き直り、そこに誰もいないことを確かめてから、彼女は片膝をついた。
胸に手を当て、頭を垂れる。
十五年、一日も欠かさず続けてきた礼だった。
「……魔王様」
呟きは、風にさらわれて消えた。
今回もお読みいただき、ありがとうございました(≧∇≦)
帝国への旅路で、新たな侍女・シェラが登場しました。
完璧すぎる所作、不自然なほど静かな足音、そして意味深な言葉――。
ヴィオレット自身はまだ気づいていませんが、彼女の周囲には少しずつ「前世」を知る者たちが集まり始めています。
転生者と転生者は惹かれ合う……ということでしょうか。
旅はまだ始まったばかり。
帝国へ向かう道中でも、新たな出会いと秘密が待ち受けています。
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