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第6話 一晩で決まった婚約

その夜のうちに、話は決まった。


私は自分の部屋に戻されることもなく、王宮の一室に移された。天井の高い、暖炉のある応接の間だ。壁際に護衛が二人立っていたが、彼らは私を見ないようにしていた。


長椅子に腰かけて、私は膝の上で手を組んでいた。


右手の甲に、まだ感触が残っている気がした。


――やっと、見つけた。


あの言葉が、頭の中で何度も再生される。誰が。誰を。私を?


「わたくしを、見つけた……?」


声に出してみたが、意味は増えなかった。


・   ・   ・


隣の広間から、声が漏れてきていた。


分厚い扉越しなので、単語は拾えない。それでも、声の高さと間の取り方だけで、どちらが押していてどちらが引いているかは分かる。


低く、短く、間を置いて話す声がひとつ。


その合間に、早口で長く続く声が二つか三つ。


――勝負になっていない。


前世で、私は何度も交渉の席に着いた。魔王は戦うだけの生き物ではない。降伏の条件を詰め、貢納の額を決め、人質の数を値切る。そういう仕事の方が、むしろ多かった。


だから分かる。


長く喋る側は、すでに負けている。


・   ・   ・


一刻ほどして、扉が開いた。


出てきたのはユリウス様だった。


顔色が悪い。パーティのときに整えていた髪が乱れて、額に張りついていた。彼は私を見つけると、そこで足を止めた。


しばらく、何も言わなかった。


「……決まった」


やがて、彼は言った。


「おまえは、レーヴェンハルト帝国に嫁ぐ」


「は」


「皇太子妃候補として迎えたいと。今夜のうちに婚約を結び、明朝には出立すると」


私は瞬きをした。


「明朝、ですか」


「あの男は、そういう男だ」


ユリウス様は疲れた声で言った。


「こちらが何を持ち出しても、答えはひとつだった。彼女を渡せ。代わりに、何でも払う、と」


「……何でも」


「文字通りだ」


彼は乾いた笑い方をした。


「東の関税を三年撤廃する。国境の駐屯を二個師団引く。今年の凶作分の穀物を無償で回す。父上が言い値を吊り上げるたび、あの男は顔色ひとつ変えずに頷いた。最後には父上のほうが黙った」


私は言葉を失った。


小国が大国から引き出せる譲歩ではない。国が傾くほどの額だ。それを、たった一人の令嬢と引き換えに。


しかも、断罪されている最中の。


「ヴィオレット」


ユリウス様が、初めて私の名を呼んだ気がした。三年の婚約期間で、彼は私を「おまえ」としか呼ばなかった。


「おまえは、あの男を知っているのか」


「……いいえ」


「本当か」


「本当です。今夜、初めてお会いしました」


彼は長く息を吐いて、天井を仰いだ。


「そうか」


それきり、何も言わなかった。


・   ・   ・


彼が去ってから、私は考えた。


条件を、確認しなければならない。


しばらくして通されたのは、当のアルヴィス様だった。


彼は入ってくるなり、また私の前で膝を折ろうとしたので、私は慌てて止めた。


「お、おやめください。座ってください、どうか」


「では、失礼して」


彼は素直に向かいの椅子に座った。素直すぎて、かえって落ち着かなかった。


蒼氷の瞳が、まっすぐ私を見ている。会場でもそうだったが、この人は本当に、一度も目を逸らさない。


「伺いたいことがございます」


「何なりと」


「わたくしの、父と母は」


「無事だ」


即答だった。


「ノクスハイム公爵家の爵位、領地、財産はすべて据え置き。あなたに関する一切の告発は取り下げ。教会からの申し立ても同様に。すでに書面にしてある」


「……取り下げ、ですか」


「不服か」


「いえ」


私は膝の上で指を握った。


「不服ではありません。ただ」


罪が消えるわけではない。


紙の上でどう処理されようと、私がしたことは、私がしたままだ。


「……ありがたく、存じます」


「もうひとつある」


彼は続けた。


「王太子ユリウス・アーデルハイドとの婚約は、あちらから破棄されたものだ。よって、あなたに瑕疵はない。この点も明文化させた」


「そこまで」


「当然のことだ」


当然。


私は、この人が何を言っているのか、半分も分かっていなかった。


分かっていたのは、この人が一晩で、国ひとつ分の代償を払って、私の周りにあった刃を全部片づけてしまったということだけだ。


・   ・   ・


「アルヴィス様」


「アルヴィス、で構わない」


「……アルヴィス様。ひとつだけ」


私は顔を上げた。


「なぜ、わたくしなのですか」


彼の表情が、ほんのわずかに動いた。


嬉しそうな、困ったような、泣きそうな。そのどれとも違う気もした。名前のつかない顔だった。


「今は、答えられない」


「なぜ」


「答えれば、あなたが怖がる」


私は息を呑んだ。


「……いずれは、教えてくださいますか」


「必ず」


彼は言った。


「その代わり、ひとつだけ約束させてほしい」


「なんでしょう」


「嫌になったら、いつでも言ってくれ」


蒼氷の瞳が、静かに揺れた。


「帝国を出たい、私の顔を見たくない、何でもいい。そう言われたら、私はあなたを縛らない。財産も身分も用意して、好きなところへ送る」


「……そんな」


「本気だ」


彼は微笑んだ。


「あなたが幸せでない場所に、あなたを置いておく理由が、私にはない」


・   ・   ・


その夜、私は眠れなかった。


寝台に横たわって、天井を見上げて、いろいろなことを考えた。


明日、この国を出る。会ったばかりの男と婚約して、大陸最強の帝国に嫁ぐ。憧れていた恋愛小説の展開とは、まるで違う。


順序が全部おかしい。


出会って、心が近づいて、それから結ばれるのが物語のはずだ。私の場合は、結ばれるところから始まっている。


けれど。


――嫌ではなかった。


それが、いちばん不思議だった。


あの人と話しているとき、私は一度も、自分の顔や声を気にしなかった。威圧してしまっただろうかと考えなかった。ティーカップを砕いたらどうしようと身構えなかった。


十七年間、初めてだった。


父と母は無事だ。公爵家も残る。私は罰を受けずに、この国を出ていける。


――赦されたわけではないのに。


それでいいのか、と自分に問うた。


答えは出なかった。


・   ・   ・


翌朝は、よく晴れていた。


荷は少なかった。持ち出しを許されたのは身の回りのものだけで、それも大半は帝国で新調するからと断られた。手元に残ったのは、母が最後に買い足してくれたティーカップがひとつ。割れないように布で二重に包んで、鞄に入れた。


馬車の前で、アルヴィス様が手を差し出していた。


「どうぞ」


「……はい」


私はその手を取った。


昨夜と同じ、剣を握る人間の手だった。


一歩、踏み出したときだった。


「――お待ちください!」


背後から、声が飛んだ。


振り返ると、公爵家の侍女服を着た娘が、石畳を蹴って走ってくるところだった。


見覚えのない顔だった。

今回もお読みいただき、ありがとうございました✨️


怒濤の展開となった第6話でしたね。

断罪の夜は終わりましたが、ヴィオレットにとって本当の物語は、ここから始まります。


すべてを知っているようで何も語らないアルヴィス。

そして、まだ明かされていない十五年前の秘密――。


新たな旅立ちの朝、思いがけない来訪者によって、物語は再び動き出します。


「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると、とても励みになります!


それでは、第7話もよろしくお願いいたしますっ!

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