第10話 反射で、殲滅
馬車の扉が、外から叩かれた。
「殿下。街道の左手、森林帯より魔獣の群れ。数、およそ四十」
「種は」
「灰狼です。それと――大型が一体」
「規模が合わないな」
アルヴィス様は短く言って、外套を掴んだ。
「季節外れだ。何かに追われて出てきたか、あるいは誰かが押し出したか」
「はっ」
「隊列を組め。馬車は動かすな。ヴィオレット嬢、失礼」
彼は私の手を取り――ではなく、私の膝に薄い毛織の掛け布をかけた。
「え」
「肌寒くなる。外は騒がしくなるが、心配は要らない。少し待っていてくれ」
そして、扉を開けて出ていった。
私は掛け布を膝に載せたまま、しばらく動けなかった。
・ ・ ・
外は、たちまち慌ただしくなった。
金属の触れ合う音。指示を飛ばす声。馬のいななき。天幕を畳む音。
私は窓に寄って、外を覗いた。
騎士たちが素早く展開していく。無駄がなかった。中央にアルヴィス様が立ち、右手を軽く上げるだけで、隊がひとつの生き物のように形を変える。
――強い。
そう思った。
指揮が、ではない。彼自身が、だ。立ち方で分かる。足の置き方、重心の残し方、視線の配り方。あの人はたぶん、この場の誰よりも強い。
私は窓枠を握りしめた。
「お嬢様」
隣にシェラがいた。
「馬車から出ぬようにと、仰せつかっております」
「……ええ」
「お嬢様」
「分かっています」
分かっている。私は皇太子妃候補で、令嬢で、守られる側だ。それが今世の私の立場だ。
前世とは違う。
じっとしていればいい。
・ ・ ・
森から、灰色の影が湧き出した。
灰狼。馬より一回り大きく、群れで狩る。単体なら騎士一人で足りるが、四十を超えると話が変わる。
騎士たちが迎え撃った。
見事なものだった。前列が槍で足を止め、後列が魔術で薙ぐ。狼が三頭、四頭と崩れていく。
崩れて、なお前に出てくる。
――おかしい。
灰狼は臆病な獣だ。仲間が倒れれば散る。それが群れで狩る生き物の理屈だ。散らない群れというのは、つまり。
背後から、もっと恐ろしいものに追われている。
その考えが形になった瞬間、森が、割れた。
・ ・ ・
木が、三本まとめて倒れた。
そこから出てきたものを、私は知らなかった。
牛を五頭ほど縦に繋いだくらいの体躯。背に硬い甲板が並び、頭部には角が二対。前脚が異様に長い。
咆哮が空気を叩いた。
馬が総立ちになった。騎士の一人が落馬した。
大型は、まっすぐこちらへ突っ込んできた。
正確には――私の乗る馬車へ。
「殿下!」
「囲め!」
アルヴィス様の声が飛ぶ。騎士たちが動く。速い。十分に速い。
けれど、間に合わない。
あの質量と速度に、横からの攻撃で軌道を変えるのは無理だ。正面で止めるしかない。そして正面に立った人間は、押し潰される。
アルヴィス様が、前に出た。
一人で。
・ ・ ・
――そこから先を、私は覚えていない。
いや、正確には覚えている。覚えているが、決めた記憶がない。
気づいたときには、馬車の扉が外れて空を飛んでいた。
私は地面に降り立っていた。
彼の、二歩前に。
「ヴィオレット嬢――」
背後で、彼が何か言った。聞こえなかった。
私の目には、突っ込んでくる質量しか映っていなかった。
甲板の継ぎ目。前脚の関節。首の付け根の、鱗が薄くなっているところ。
――ああ、あそこか。
そういう理解の仕方を、私の身体は勝手にする。
右手を、上げた。
・ ・ ・
熱くはなかった。
炎というのは、出す側にとっては熱くない。ただ、指の先から重さが抜けていく感覚がある。溜めていたものを、外に置いてくる感じ。
赤の、もっと奥にある色が、空気を裂いた。
大型が、止まった。
止まったというより、止まったまま前に滑ってきた。首の付け根から上が、もうそこになかったからだ。
十歩ほど滑って、倒れた。
余波が森の縁を舐めて、灰狼の群れを薙いだ。半分ほどが炭になり、残りが悲鳴を上げて逃げ散った。
風が吹いて、灰が舞った。
静かになった。
・ ・ ・
――ああ。
私は、自分の右手を見た。
まだ熱の残滓が指先で燻っている。
やってしまった。
十七年かけて隠してきたものを、数百の目の前で、全部。
騎士たちが、私を見ていた。誰も動かなかった。誰も、何も言わなかった。
そうだろう、と思った。
これが人の反応だ。あの会場と同じだ。あの階段と、あの髪飾りと、あの渡り廊下と、同じだ。
私は振り返れなかった。
背後にアルヴィス様がいる。
彼は、私が数万を焼いたと知っている。知っていると言った。けれど、知っているのと、見るのとは違う。
言葉で聞いた罪と、目の前で焼かれた獣の死体は、違う。
――どんな顔をしているだろう。
怖い。
十七年で、初めてそう思った。人にどう見られるかが怖い、ではなく、この人にどう見られるかが怖い、と。
私は目を閉じて、振り返った。
・ ・ ・
拍手の音がした。
「――は?」
目を開けた。
アルヴィス様が、拍手をしていた。
いや、それは拍手という穏やかなものではなかった。全力で、両手を打ち鳴らしていた。完璧な皇太子の仮面がどこかへ吹き飛んで、頬がかすかに紅潮していた。
「素晴らしい」
「あの」
「見たか、ガイル。首の付け根だ。あの角度から、あの一瞬で」
「……見ておりました」
騎士団長らしき大男が、呆然と答えた。
「私も、あの個体は正面から潰すつもりだった。三十秒はかかっただろう。彼女は一秒だ。しかも余波の向きを制御して、こちらに一片も飛ばしていない」
「はい」
「ヴィオレット嬢」
彼が振り向いた。
蒼氷の瞳が、真昼の光を弾いていた。
「怪我は」
「……ございません」
「よかった」
彼は心底ほっとした顔をして、それから、また笑った。
「見事だった」
・ ・ ・
そして、それは彼だけではなかった。
「――うおおおおおっ!」
騎士たちが、突然どよめいた。
「見たか今の!」
「一撃だぞ!」
「妃殿下! 妃殿下、万歳!」
「まだ妃殿下ではない」
「失礼しました! 未来の妃殿下、万歳!」
槍の石突きが地面を叩く音が、揃って響いた。歓声が上がった。誰かが笛を吹いた。
私は、立ち尽くしていた。
理解が追いつかなかった。
これは、称賛だ。私は今、称賛されている。
十七年、力を見せるたびに人が離れていった。侍女は青ざめ、令嬢は泣き、婚約者は熱を出した。
なのに、ここでは。
「アルヴィス様」
「うん」
「あの、皆さんは」
「喜んでいる」
「なぜ」
彼はきょとんとした。
それから、ああ、と何かに気づいた顔をした。
「そうか。アーデルハイドは違うのだったな」
「違う、とは」
「レーヴェンハルトでは、強いことが最も美しい」
彼は言った。
「爵位でも血筋でもない。強い者が敬われ、強い者に従う。それが帝国の建国以来の作法だ。あなたは今、この場にいる全員より強いところを見せた。彼らが従わない理由がない」
私は、口を開けたまま彼を見ていた。
「――ですが、わたくしは、女で」
「関係ない」
「令嬢で」
「関係ない」
「令嬢らしくないと、ずっと」
「誰が言った」
彼は、また同じことを聞いた。
私は答えられなかった。
・ ・ ・
歓声はまだ続いていた。
騎士の一人が駆けてきて、私の前で膝をついた。若い男だった。
「未来の妃殿下! 先ほどの一撃、生涯の誉れとして記憶いたします!」
「あ、ありがとう、ございます」
「あの、差し支えなければ、ご流派を」
「流派」
「はい! どちらでお学びに」
私は答えに詰まった。
――独学です。前世で、勇者を殺しながら。
言えるわけがなかった。
「……独学、です」
「独学!」
若い騎士が目を輝かせた。
「なんと。天賦の才というやつですね!」
背後で、シェラが小さく息を吐いた音がした。
・ ・ ・
その日の夕方。
宿場町に着いて、私は部屋の窓辺に座っていた。
灰の匂いがまだ髪に残っている気がして、何度も指で梳いた。
胸の中が、変な具合だった。
罪悪感がある。あの力は、私が数万を焼いた力と同じものだ。それを使って、私はまた何かを焼いた。
けれど、同時に。
――嬉しかった。
拍手をされた。歓声を浴びた。生涯の誉れだと言われた。
そんなことは、二度の人生を通して、一度もなかった。
窓の外で、騎士たちが焚き火を囲んで騒いでいる。時折こちらを見上げては、慌てて姿勢を正す。
私は、そっと呟いた。
「帝国では……これが、称賛されるのですか」
答える者は、いなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
今回、ヴィオレットが初めて「力を見せたことによる称賛」を得ました。
これまで彼女にとって力は、隠さなければならないもの、恐れられるもの、そして罪を思い出させるものばかりでした。
そんな彼女が、帝国ではまったく違う価値観に触れます。
もちろん、「褒められたから過去が消える」わけではありません。
それでも、この出来事がヴィオレットにとって大きな転機になっていきます。
そして、アルヴィスが彼女を求める理由も、少しずつ明らかになっていきますので、ぜひ今後も見守っていただけると嬉しいです。
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次回もよろしくお願いいたします!




