第3話 この女は、魔王です
会場は静まり返っていた。
聖女候補の少女が夢の話を始めたのだ。誰もが戸惑い、けれど誰も止められなかった。彼女の声には、そういう種類の力があった。
「わたくしは、その夢を十五年見続けました」
ミナ・レンフィールドは、まっすぐに私を見ていた。
もう震えていなかった。俯いてもいなかった。あの、廊下ですれ違うたびに壁際へ飛びのいていた少女はどこにもいなかった。
「毎晩です。目を閉じれば、必ず」
私の指先から、感覚が抜けていく。
「炎の色まで覚えています。あれは赤ではありません。赤の、もっと奥にある色です。見た者にしか分からない色です」
やめて。
「わたくしは、その色を知っています」
やめてください。
「そして――」
彼女は、右手を上げた。
小さな、手袋に包まれた手だった。その指先が、迷いなく私を指した。
「この女は」
ああ。
「数万を焼き殺した、魔王です」
・ ・ ・
一拍の空白があった。
それから、会場がどよめいた。
けれどそれは、私が身構えていた種類のどよめきではなかった。
「……なんですって?」
「まあ」
「魔王って、あの、子どもの寝物語の」
扇が揺れ、囁きが波紋のように広がっていく。困惑。それから、かすかな失笑。前列にいた老貴族が、堪えきれずに眉を上げて隣の者と目配せをした。
そうだ。
この世界に、魔王はいない。
聖教会の説く教義にも、王立学園の歴史書にも、魔王という言葉は出てこない。あるのは、乳母が幼子に聞かせる御伽噺だけだ。悪い子のところには魔王が来る。夜更かしをすると魔王に食べられる。そういう、輪郭のない怪物。
だから彼らにとって、今の言葉は――
「聖女候補ともあろう方が、ずいぶんな仰りようですこと」
「よほど恐ろしい思いをなさったのでしょう」
――ただの、激しすぎる罵倒だった。
人でなし。血も涙もない女。悪魔のような。魔王のような。そういう連なりの、いちばん端にある言葉。詩的に過ぎるが、あれだけの目に遭わされた娘の口から出たのなら無理もない、と。
同情の視線が、ミナへ集まっていく。
ユリウス様が咳払いをした。
「……ミナ。気持ちは分かるが、少し言葉が過ぎる」
「わたくしは、そのままを申し上げました」
「うむ。しかしだな」
彼は困り顔で額を押さえた。せっかく整えた断罪の場が、聖女候補の情緒的な失言で締まらなくなった。彼の頭にあるのは、おそらくその程度のことだった。
・ ・ ・
私は、動けなかった。
指先どころではない。膝から下の感覚がなかった。喉が塞がって、息の吸い方を忘れていた。
会場の誰も、私を見ていなかった。
いや、正確には、見てはいた。けれど誰も、私の顔色に気づいていなかった。氷血の令嬢が青ざめたところで、もともと血の気のない女がいつも通りの顔をしているようにしか見えないのだ。
十七年ぶんの誤解が、こんなところで私を助けていた。
――笑ってしまいそうだった。
だって、そうでしょう。
この会場で、ただ一人。
彼女の言葉を、正しい意味で受け取った人間がいる。
数万。
その数を、私は数えたことがない。数えられるようなやり方をしていなかった。焼いたのだ。城も、街も、逃げ惑う背中も、ひとまとめに。
焔獄の魔王ヴェルギア。
前世の私に付けられた名だ。三分の一の大陸が、その名の下で灰になった。
罵倒ではない。比喩でもない。
事実だった。
・ ・ ・
弁明を、と誰かが言った気がする。
私は口を開かなかった。開けなかった。
否定の言葉が、ひとつも見つからなかったからだ。
三月の階段。四月の髪飾り。五月の渡り廊下。あれらはすべて、誤解だった。悪意はなかった。弁解の余地はあった。
けれど、今の一言には――ない。
一言も、ない。
視界の端で、ミナ・レンフィールドがゆっくりと手を下ろすのが見えた。
彼女は、会場を見ていなかった。
同情を集めることにも、ユリウス様の困惑にも、まるで関心を示さなかった。
彼女はただ、私だけを見ていた。
そこで、ようやく私は理解した。
――この娘は、会場に向かって言ったのではない。
信じてもらえないことなど、初めから承知の上だったのだ。この世界で「魔王」と叫んだところで、どう受け取られるかくらい、十五年も生きていれば分かる。
それでも彼女は言った。
たった一人に、届けばよかったから。
私の膝が、わずかに震えた。
若草色の瞳が、静かに私を捉えていた。その奥で燃えているものの名前を、私は知っている。
――知っている。私が、そういうものを人に植え付けてきた側だから。
けれど、それより先に、頭の芯で鳴り響いている問いがあった。
夜ごと炎の夢を見るという、この娘。
私の罪を、正確な数で言い当てたこの娘。
なぜ。
なぜ――この娘が、それを知っている。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
ついに語られた「魔王」という言葉。
けれど、その意味を本当に理解しているのは、この場でたった二人だけです。
そして、十七歳であるヴィオレットが、心の中で十五歳と呟いた理由にも、なにやら秘密がありそうです。
さて、ここから物語は、婚約破棄や冤罪だけでは終わらない、大きな秘密へと繋がっていきます。
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それでは、第4話もよろしくお願いいたします(●´ω`●)




