第2話 聖女候補の告発
ミナ・レンフィールドが、一歩前に出た。
小柄な少女だ。私より頭ひとつ分は低い。手袋をした両手を胸の前で握りしめ、その指先が震えているのが遠目にも分かった。
ユリウス様が慌てて彼女に駆け寄る。
「無理をするな、ミナ。君が話す必要はない」
「いいえ」
彼女は首を横に振った。
「わたくしの口から、申し上げます」
会場がざわめいた。健気だ、と誰かが囁いた。あんなに震えているのに。可哀想に。
私は立ち尽くしたまま、その光景を眺めていた。
こういうときの正しい振る舞いを、私は知らない。反論すべきなのだろうか。それとも黙って聞くべきなのだろうか。恋愛小説には、身に覚えのない罪で糾弾された令嬢がどう振る舞うべきかまでは書いていなかった。
とりあえず、私は背筋を伸ばして立っていることにした。
後で知ることになるのだが、この判断は最悪だった。
・ ・ ・
「……三月の、初めのことでした」
ミナ・レンフィールドの声は、澄んでいた。
「西棟の階段で、ノクスハイム様とお会いしました。わたくしは編入したばかりで、まだ校舎の造りも分からなくて。階段の上で、道に迷っていたのです」
覚えている。
覚えていた。
編入生の男爵令嬢が、階段の上で立ち尽くしていた。困っているように見えたので、私は声をかけようとした。
「ノクスハイム様が、わたくしのほうへ近づいてこられました」
彼女は私を見て、飛び上がった。
「わたくし、驚いてしまって。後ろに下がろうとしたのです。そこが階段の縁だとは、思わずに」
――そう。彼女は下がった。踵が段を踏み外した。
私の体は考えるより先に動いた。四段分の距離を一息で詰めて、落ちかけた彼女の腕を掴んだ。
引き上げた。無事だった。
「ノクスハイム様に、腕を掴まれました」
会場がどよめいた。
「三日間、痣が残りました」
……あ。
私は自分の右手を見下ろした。
加減。
そうだ。加減だ。とっさのことだったから、私はまるで考えていなかった。落ちる人間を掴み止めるのに必要な力を、体が勝手に計算して出した。前世の基準で。
「なんということだ」ユリウス様が呻いた。「階段から突き落とそうとしたのだな」
違う。逆だ。掴まなければ彼女は落ちていた。
言おうとして、私は口を開いた。
そして、気づいてしまった。
――あの場に、他に誰がいた?
いなかった。
見ていた者は、いない。私が助けたことを証言できる人間は、この会場に一人もいない。
・ ・ ・
「四月には、こんなこともありました」
ミナ・レンフィールドは続けた。
「中庭で、わたくしは母の形見の髪飾りを落としてしまったのです。探していたら、ノクスハイム様が先に拾い上げてくださって」
覚えている。銀細工の、小さな花の飾りだった。
「返していただいたとき、それは――」
ひしゃげていた。
私が拾い上げて、彼女に差し出す間に。ただ指で摘まんだだけで。
その瞬間の彼女の顔を、私は今でも思い出せる。息を呑んで、真っ青になって、それから震える手でそれを受け取った。
私は謝った。心から謝った。同じものを作らせますと申し出た。
彼女は首を横に振って、走って行ってしまった。
「形見でしたので」
彼女は静かに言った。「もう、直りません」
会場から、誰かの啜り泣きが聞こえた。
・ ・ ・
「そして、五月」
三つ目だ。
「渡り廊下で、ノクスハイム様とすれ違いました。わたくしは怖くて、俯いていました。けれど、どうしても謝らなければと思って」
なぜ謝るのだろう、と当時の私は思った。
「顔を上げたら、ノクスハイム様が、わたくしを――」
見ていた。
微笑もうとしていた。
三月と四月のことがずっと引っかかっていたから、私は今度こそきちんと友好を示そうと思ったのだ。鏡の前で百回は練習した、優しい微笑み。
「睨んでおられました」
彼女は言った。
「わたくし、その場で膝から力が抜けて、動けなくなりました。あの目を、今も夢に見ます」
会場が静まり返った。
私は、悟った。
三つとも、実際に起きたことだ。彼女は何ひとつ嘘を言っていない。
腕は掴んだ。髪飾りは壊した。あの日、私は彼女を見ていた。
事実だけを並べれば、こうなるのだ。
・ ・ ・
「――弁明はあるか、ヴィオレット」
ユリウス様の声が、遠くから聞こえた気がした。
私は会場を見渡した。
数百の顔。そのすべてが、私を見ている。
疑っている顔は、ひとつもなかった。
そうだろう。彼らは知っているのだ。ノクスハイム家の令嬢が令嬢の腕を折りかけたことを。ティーカップを砕いたことを。夜会で微笑んだだけで前列の令嬢が失神したことを。
十七年かけて、私が積み上げてきたものだ。
一つひとつは、ただの失敗だった。悪意なんて一度もなかった。それでも、並べてしまえば――こう見えるのだ。
喉の奥が、渇いた。
それでも、言わなければ。
「わたくしは」
声が出た。思ったより低く響いて、前列の令嬢がまた一歩下がった。構わない。
「彼女を、傷つけるつもりは――」
「殿下」
また、遮られた。
ミナ・レンフィールドが、ユリウス様のほうを向いていた。
「今、申し上げたことは」
彼女の声から、震えが消えていた。
「本当に、些細なことです」
会場が、戸惑いにざわめく。ユリウス様が眉をひそめた。「ミナ、何を」
「わたくしが今日ここに立ったのは、痣や、髪飾りのためではありません」
彼女はゆっくりと振り返った。
私を見た。
その目に、もう恐怖はなかった。憎悪すら、今は静かに凪いでいた。ただ、深いところで燃えている何かがあった。
「――ずっと、夢を見るんです」
彼女は言った。
「空が真っ赤で。地面が、燃えていて」
私の指先から、感覚が消えた。
「大勢の人が、逃げ惑っていて。誰も、逃げきれなくて」
やめて。
「そして、その炎の真ん中に」
やめて。
「一人だけ、立っている人がいる夢を」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
ヴィオレットにとっては善意だった出来事が、別の角度から見るとまったく違う意味を持ってしまう――。
少しずつ見えてきた「すれ違い」の正体ですが、物語はここからさらに予想外の方向へ進んでいきます。
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それでは、第3話もよろしくお願いいたします✧*。◝(*'▿'*)◜✧*。




