第17話 はじめての、褒められかた
決闘の翌日から、皇城が変わった。
廊下ですれ違う侍女が、壁際に寄らなくなった。
寄らないどころか、立ち止まって礼をする。そのあと、顔を上げて笑う者までいる。
「おはようございます、ヴィオレット様」
「……お、おはようございます」
「昨日は、拝見しておりました。三階の窓から」
「そう、ですか」
「あの、その」
若い侍女は頬を紅潮させて言った。
「かっこよかったです!」
そして脱兎のごとく走り去った。
私は廊下に取り残された。
・ ・ ・
そういうことが、一日に十回ほど起きた。
厨房の前を通れば料理人が出てきて「今朝の焼き菓子は特別に作りました」と言う。中庭を歩けば庭師が「あの砂は片づけましたのでご心配なく」と言う。練兵場の前を通ったら、修繕中の石工が槌を置いて頭を下げた。
「あの、修繕費は、わたくしが」
「とんでもない」
石工頭は笑った。
「あれは名誉の穴でさあ。うちの若いのが、削った石を欲しがって喧嘩しております」
「……喧嘩」
「お守りにするんだと」
私は、返す言葉がなかった。
・ ・ ・
昼過ぎ、マルグリット夫人の教育があった。
彼女は白磁の茶器を前に、片眼鏡を光らせた。
「本日で、七日目でございます」
「はい」
「破損、ゼロ」
「……はい」
「歩容、良好。礼の形、完成。表情については――」
夫人は言葉を切った。
「本日の侍女の交代は、ございません」
私は目を瞬いた。
「あの、それは」
「一人も、逃げませんでした」
夫人は片眼鏡を外した。
「ヴィオレット様。四十年やってまいりましたが、七日でここまで来た方は、記憶にございません」
「……いえ、そんな」
「ご謙遜は不要です」
「本当に、たまたまで」
「たまたま、五客割ってから七日で白磁を扱えるようにはなりません」
「ですが、皆さんが手を貸してくださったので」
「ヴィオレット様」
夫人の声が、少しだけ硬くなった。
「なぜ、受け取らないのです」
・ ・ ・
その夜、私はそのことを考えていた。
窓辺の椅子に座って、暮れていく庭を見ていた。
――受け取らない。
そう言われて、初めて自覚した。
今日一日、私は何十回か褒められた。そのすべてに、私は同じ返事をしていた。
いえ、そんな。たまたまです。皆さんのおかげです。
嘘ではない。本当にそう思っている。
けれど。
「入っても」
扉の外から声がした。
「……どうぞ」
アルヴィス様だった。
彼は手に何も持っていなかった。焼き菓子も、花も、書類も。
それが少し珍しかった。
「今日は、何も持ってきていない」
「……はい」
「持ってくると、あなたが恐縮するとガイルに言われた」
「ガイル様が」
「あれは妙なところで人を見ている」
彼は向かいの椅子に座った。
「調子はどうだ」
「おかげさまで」
「怪我は」
「ございません」
「そうか」
彼は、それから少し間を置いて、言った。
「今日、練兵場の石工に会った」
「……はい」
「若い者が削った石を取り合っていると」
「そのようです」
「あなたは、なんと答えた」
「……返す言葉が、ありませんでした」
彼は頷いた。
「そうだろうな」
・ ・ ・
「ヴィオレット」
「はい」
「ひとつ、練習をしてもいいか」
「練習」
「マルグリット夫人の真似をする」
彼は姿勢を正した。
そして、言った。
「――あなたは、美しい」
私は、椅子から飛び上がりかけた。
「な、な」
「返事は」
「あの、その、いえ、そんな」
「不合格だ」
「不合格」
「もう一度」
彼は言った。
「あなたは、美しい」
「……お、恐れ入ります」
「不合格」
「なぜですか!」
「恐れ入る必要がない」
彼は真顔だった。
「私が言ったのは事実の報告だ。あなたはそれを受け取るだけでいい。『ありがとう』と」
・ ・ ・
私は、口を開いた。
そして、閉じた。
言えなかった。
「……言えません」
「なぜ」
「ありがとう、と言うと」
言葉を探した。
「認めることになります」
「何を」
「わたくしが、それを受け取ってよい人間だと」
部屋が、静かになった。
「そんな資格は、ありません」
私は、膝の上で手を握った。
「褒められるたびに、思うのです。この人たちは、わたくしが何をしたか知らないから褒めているのだと。知っていたら、こんなことは言わないのだと」
「……」
「石を削ってお守りにする若い方たちも。焼き菓子を特別に作ってくださった料理人の方も。今朝、かっこよかったですと言ってくださった侍女の方も」
指が、震えていた。
「みんな、知らないから」
・ ・ ・
アルヴィス様は、長いこと黙っていた。
やがて、彼は言った。
「では、私はどうだ」
「え」
「私は、知っている」
私は顔を上げた。
蒼氷の瞳が、そこにあった。
「あなたが何をした存在か、私は知っている。知った上で、昨日の決闘を見て、心の底から見事だと思った」
「……」
「私も、知らないから言っているのか」
私は、何も言えなかった。
「ヴィオレット。あなたは、褒め言葉を断ることで、自分を罰している」
彼は静かに続けた。
「それは、あなたの自由だ。私は止める権利を持たない」
「……」
「だが、ひとつだけ言わせてくれ」
彼は身を乗り出した。
「あなたが『いえ、そんな』と言うたびに、褒めた人間の言葉が、ひとつ地面に落ちる」
私は、息を呑んだ。
「あの侍女は、勇気を出して走ってきた。石工は、槌を置いて頭を下げた。夫人は、四十年で初めてだと言った」
「……」
「あなたが受け取らないと、その全部が、行き場をなくす」
・ ・ ・
視界が、滲んだ。
「――ずるい」
私は言った。
「またそれを、おっしゃる」
「事実だ」
「ずるい、です」
私は目元を拭った。拭っても、次が出てきた。
「そんな言われ方をしたら、断れないではありませんか」
「そうか」
彼は、微かに笑った。
「では、もう一度」
彼は姿勢を正した。
私も、座り直した。
呼吸を整えた。
指の震えを止めて、顔を上げて、彼の目を見た。
「――あなたは、美しい」
・ ・ ・
喉が、詰まった。
言葉が、そこで固まった。
十七年ぶんの何かが、喉の奥に引っかかっている。もっと言えば、二度ぶんの生の何かが。
私は、それを飲み下した。
そして、言った。
「……ありがとう、ございます」
声が、掠れていた。
「合格だ」
彼が言った。
そして、初めて――心底嬉しそうに笑った。
私はそれを見て、また泣いた。
「なぜ泣く」
「わ、分かりません」
「そうか」
「分からないのです、本当に」
「うん」
彼は、それ以上何も聞かなかった。
代わりに、卓の上に手を置いた。
手のひらを上に向けて。
差し出すのでもなく、掴むのでもなく、ただそこに置いた。
「触れなくてもいい」
彼は言った。
「置いておくだけだ」
私は、しばらくそれを見ていた。
それから、そっと、指先だけを重ねた。
温かかった。
剣を握る人間の手だった。
・ ・ ・
翌朝、私は久しぶりによく眠った顔で目を覚ました。
寝台から起き上がって、窓を開けた。
朝の光が入ってきた。庭の木立が揺れて、白い花弁が舞い上がる。タリアの花だ。
――今日は、何をしよう。
そう思って、自分で驚いた。
そんなことを考えたのは、二度の生を通して、初めてだった。
「お嬢様」
扉が開いて、シェラが入ってきた。
「おはよう、シェラ」
「おはようございます」
彼女は湯の支度を整え、それから、少しだけ間を置いた。
「……昨夜は、よくお休みでしたか」
「ええ。とても」
「左様でございますか」
彼女は、それだけ言った。
けれど、その声は、この数日でいちばん柔らかかった。
・ ・ ・
支度を終えて、朝食の間へ向かおうとしたときだった。
廊下の先から、ガイル騎士団長が歩いてきた。
大股で、急いでいた。
私を見つけると、彼は足を止めて礼をした。
「妃殿下。おはようございます」
「まだ妃ではありません」
「これは失礼を。……ヴィオレット様」
「何か、ありましたか」
ガイルは、手にした銀の盆を差し出した。
盆の上に、封書が一通。
「たった今、早馬にて」
私は、それを見た。
蝋の封に、見覚えのある紋章が押されていた。
――アーデルハイド王国、聖教会の印。
第17話をお読みいただき、ありがとうございました!
今回は大きな戦いではなく、ヴィオレット自身の心が少し前へ進んだお話でした。
誰かに褒められたとき、「ありがとう」と受け取ること。 当たり前のようでいて、それが一番難しい人もいます。
ヴィオレットは長い間、自分には幸せや称賛を受け取る資格がないと思い続けてきました。
だからこそ、この一言は、彼女にとって決闘の勝利にも負けない大きな一歩だったのだと思います。
……そして、最後に届いた一通の手紙。
ようやく穏やかになり始めた日々へ、アーデルハイドから何がもたらされるのか。
次回も、ぜひお付き合いくださいね。




