第16話 決闘
決闘は、翌朝と決まった。
帝国の作法では、申し込みは即日、立ち会いは翌朝と定められている。夜を一つ挟むのは、双方に考え直す機会を与えるためだそうだ。
私は、その夜を眠らずに過ごした。
・ ・ ・
「やめてもいい」
夜半、部屋を訪ねてきたアルヴィス様が言った。
「私が発端だ。私が撤回すれば、彼も引く」
「……いいえ」
「無理をする必要はない」
「無理では、ありません」
私は窓辺に立ったまま答えた。
「怖いのです」
彼は黙った。
「負けるのが怖いのではありません。それは、たぶん、ありません」
言ってしまってから、傲慢だと思った。けれど嘘は言えなかった。
「怖いのは」
私は、自分の右手を見た。
「――殺してしまうことです」
・ ・ ・
「わたくしは、今世で人と戦ったことがありません」
指が、震えていた。
「魔獣は違います。あれは反射で構いません。ですが、人は」
前世で、私が人に向けて手を上げた回数を、私は覚えていない。
覚えているのは、どうやったかだ。
身体が覚えている。相手の呼吸のどこを狙えば一息で終わるか。刃をどの角度で入れれば苦しませずに済むか。逃げる者をどう追えば最短か。
そういう技術ばかりが、綺麗に残っている。
「手加減というものを、わたくしは習ったことがないのです」
私は言った。
「加減して勝つ、という戦い方を、教わったことがありません。前世で必要がなかったから」
「……そうか」
「明日、あの方が本気で来られたら」
私の指が、勝手に動く。
魔獣のときのように。馬車の木枠のときのように。侍女の腕のときのように。
「――わたくしは、たぶん、応えてしまいます」
・ ・ ・
アルヴィス様は、しばらく何も言わなかった。
やがて、彼は言った。
「ヴィオレット」
「……はい」
「あなたは、七つのとき侍女の腕を折った」
私は顔を上げた。
話した覚えがなかった。
「……なぜ、それを」
「調べた」
彼はあっさり言った。
「不快なら謝る。だが、知っておきたかった」
「……いえ」
「その侍女は、今も公爵家にいる。三年前に厨房の主任になっている」
「……はい」
「あなたは、折った。折っただけだ」
私は、息を止めた。
「七つのあなたは、加減を知らなかった。だが、殺してはいない。腕を掴んで、折った。それだけで止めている」
彼は、静かに続けた。
「三月の階段でも、あなたは掴んで引き上げた。痣は残ったが、それだけだ。魔獣のときも、余波をこちらに一片も飛ばさなかった」
「それは」
「あなたの身体は、殺し方だけを覚えているのではない」
彼は言った。
「止め方も、覚えている」
・ ・ ・
夜が明けた。
決闘場は皇城の東、円形の練兵場だった。石造りの階段席が三方を囲み、そこがすでに埋まっていた。
騎士。貴族。文官。使用人まで。
朝の光が斜めに差して、砂の地面を白く照らしていた。
「――ヴィオレット嬢」
ディーク・グレンツが、砂を踏んで進み出た。
軽装だ。胸当てと籠手のみ。剣は片手半の直剣。
「昨夜は、失礼を申しました」
「いいえ」
「叔父に叱られました。三時間ほど」
彼は苦笑した。
「ですが、撤回はいたしません。私は、確かめたいのです」
「……なぜ」
「殿下が、あそこまで仰る方がどれほどのものか」
彼は剣を抜いた。
「私は帝国の騎士です。強い者を見て、その下に立つのは恥ではない。むしろ望むところです。ですが――見もせずに膝を折るのは、恥です」
私は、彼を見た。
嫌いになれない人だ、と思った。
「……分かりました」
私は、貸し与えられた剣を抜いた。
・ ・ ・
シェラが、砂の際に立っていた。
「お嬢様」
「なあに」
「手加減など、お考えになりませぬよう」
「シェラ」
「あの者は、それを望んでおりません」
彼女は言った。
「望まれてもいない情けをかけるのは、侮辱でございます」
私は、彼女を見た。
「……ありがとう」
「勝たれよ」
・ ・ ・
立会人が、手を上げた。
「――帝国貴族院の名において。両者、構え」
私は剣を上げた。
構えを取った瞬間、身体の中で何かが切り替わるのが分かった。
音が、遠くなる。
砂の一粒一粒が見える。ディーク・グレンツの胸当ての留め具の位置が見える。息を吸う速さ、右足に乗せた体重、剣先のわずかな揺れ。
――強い。
本気でそう思った。
この人は強い。この場で三本の指に入る。二十歳でこれなら、あと五年で帝国最強を争う。
「始め!」
・ ・ ・
ディークが動いた。
速い。
初撃は左からの薙ぎ。踏み込みが深く、間合いの読みが正確だ。私の反応を見るための一撃ではない。最初から本命だった。
――ああ。
美しい剣だ、と思った。
そして。
私の身体が、動いた。
・ ・ ・
そこから先は、たぶん、一瞬だった。
けれど私の中では、ずいぶん長かった。
左を捌く。
身体が勝手に半歩沈む。彼の剣が私の髪をかすめて流れる。
懐に入る。
一歩。彼の胸当ての内側、心臓の位置が、目の前に来る。
――ここだ。
右手が、動いていた。
剣の柄頭を、胸骨の左三寸に叩き込む軌道。深く入れば胸骨を割り、心臓を止める。前世で、私はこれを何百回とやった。
肘が伸びる。
――止まらない。
・ ・ ・
私は、自分の右腕を、左手で掴んだ。
内側から。
肘が伸びきる寸前に、自分で自分の腕を止めた。
――ぎ、と骨が鳴った。
行き場を失った力が、逃げ道を探した。
私は、それを地面へ流した。
・ ・ ・
轟音がした。
砂が、爆ぜた。
私の足元から扇形に、練兵場の地面が抉れた。石畳が三枚めくれ上がり、白い砂が天まで噴き上がって、朝の光の中で霧のように広がった。
観客席から悲鳴が上がった。
砂が晴れた。
ディーク・グレンツは、立っていた。
無傷だった。
ただ、彼の剣が、二十歩ほど離れた砂の上に落ちていた。いつ手を離れたのか、たぶん本人も分かっていない。
そして、私の左手が――
彼の胸当ての、留め具を掴んでいた。
・ ・ ・
静寂。
私は、震える手を離した。
「……申し、訳」
言葉が出なかった。
「申し訳ございません。わたくしは、今、あなたを」
「――は」
ディークが、声を漏らした。
「――はは」
彼は、後ろに一歩下がった。
そして、笑い出した。
「はっはっはっ!」
腹の底からの笑いだった。
「――見えなかった!」
彼は叫んだ。
「一片も見えなかった! 私は今、剣を振ったのですよ! 振ったところまでは覚えている! その後が、まるでない!」
「あの、ディーク様」
「ヴィオレット嬢」
彼は笑いを収めて、まっすぐ私を見た。
「あなたは、途中で止めましたね」
私は、答えられなかった。
「あの地面を見れば分かります。あれは私に向かうはずだったものだ。あなたは自分で自分を止めて、行き場を地面にやった」
彼は、剣を拾いに行かなかった。
その場で、片膝をついた。
砂の上に。
「――お見事」
・ ・ ・
歓声が、爆発した。
階段席が揺れた。騎士たちが立ち上がり、鞘で手すりを叩き、名を叫んだ。文官が帽子を投げた。使用人たちが手を打ち鳴らした。
「妃殿下!」
「未来の妃殿下!」
「見たか今の! 地面が!」
「グレンツの若造が膝を折ったぞ!」
「ディーク様も見事です! 逃げなかった!」
観客席の一角で、グレンツ侯爵が立っていた。
彼は、長いこと私を見ていた。
それから、ゆっくりと胸に手を当て、頭を下げた。
背後の十数人が、それに倣った。
・ ・ ・
私は、砂の真ん中に立っていた。
歓声が降ってくる。
耳が痛いほどの音だった。
――なんだろう、これは。
前世で、勝利のあとに聞いたのは、静けさだった。燃え尽きたあとの、風の音だけの。
今、聞こえているのは、音だ。
人の声だ。
生きている人間が、生きている私に向かって、何かを叫んでいる。
誰も死んでいない。
誰も、死んでいない。
・ ・ ・
視界の端で、アルヴィス様が拍手をしていた。
いつもの、なりふり構わない拍手だった。完璧な皇太子の仮面など、とうにどこかへ行っていた。
その隣で、ガイル騎士団長が涙を拭いていた。なぜ泣いているのかは分からなかった。
反対側の柱の陰で、シェラが立っていた。
腕を組んで、こちらを見て、何も言わずに、ただ小さく頷いた。
私は、砂を握りしめた。
そして、初めて、その言葉を思った。
――ここにいても、いいのかもしれない。
第16話をお読みいただき、ありがとうございました!
ついに帝国での初めての決闘でした。
ヴィオレットにとって、本当の敵はディークではなく、「前世の自分」だったのかもしれません。
力を振るえば誰かが死ぬ。
だから力を隠して生きてきた彼女。
しかし、初めて「力を使っても守れる」という経験を積み重ねることができました。
そして、ディークという青年も、帝国らしい騎士として気持ちよく書けたキャラクターです。
強者を認めることを誇りとする帝国の価値観を、彼が象徴してくれました。
物語はここから、ヴィオレットが少しずつ帝国で居場所を見つけていく流れへと進んでいきます。
次回も、ぜひお付き合いいただけたら嬉しいです(∩´∀`)∩




