第15話 夜会デビュー
夜会の支度は、無言で進んだ。
シェラは、いつも通りに働いた。湯浴みの支度をして、髪を結い、宝飾を選び、私の背後で紐を締めた。
手際は完璧だった。前世の話など、一度も出なかった。
「……シェラ」
「はい」
「その、昨日の」
「本日の装いは、深紅にいたしました」
彼女は鏡越しに言った。
「帝国の色でございます。旧貴族派は、他国から来た娘が帝国の色を纏うことを不遜と取るでしょう。ですが、遠慮した色を選べば、それはそれで侮られます」
「……そうね」
「侮られるくらいなら、不遜と言われた方がよろしい」
私は鏡の中の彼女を見た。
彼女は目を合わせず、髪飾りを挿していた。
「シェラは、わたくしに戦えと言っているのね」
「いいえ」
彼女の手が止まった。
「勝たれよ、と申し上げております」
・ ・ ・
大広間の扉が開いた。
音楽が止まった。
数百の視線が、一斉にこちらを向いた。
――ああ、これは、あの夜と同じだ。
婚約破棄の夜。数百の目に見られた、あの感覚。
けれど、違うところもあった。
あの夜、彼らは私を怖れていた。ここでは、誰も怖れていない。
代わりに、測っている。
「――ヴィオレット・ノクスハイム嬢」
侍従の声が響いた。
私は、マルグリット夫人に叩き込まれた形で、裾を摘まみ、膝を折った。
敗者の礼ではない、新しい礼だ。
大広間が、しんとした。
・ ・ ・
最初に近づいてきたのは、白髪を撫でつけた初老の男だった。
「これはこれは。お噂はかねがね」
上等な仕立ての礼服。胸に古い意匠の徽章。
「グレンツ侯爵と申します。帝国貴族院の末席を汚しております」
末席、という言葉が嘘であることは、周囲の者の位置取りで分かった。彼の背後に十数人が扇形に控えている。
「アーデルハイドより、ようこそ」
「お招きに預かり、光栄に存じます」
「いやいや。しかし驚きました。殿下が突然お発ちになったかと思えば、たった五日で妃候補を連れてお戻りとは」
侯爵は、扇のように両手を広げた。
「よほど、名高いご令嬢なのでしょうな」
「――名高い、と申しますと」
「ええ。それはもう」
彼は微笑んだ。
「アーデルハイドの卒業パーティにて、随分と華々しい夜を過ごされたとか」
周囲から、抑えた笑いが起こった。
・ ・ ・
私は、表情を変えなかった。
変えられなかった、というのが正確だ。
――知っている。
この人たちは、あの夜のことを知っている。当然だ。国が違っても、貴族の噂は早い。まして皇太子妃候補ともなれば、調べない方が怠慢だ。
「……ご存じでしたか」
「多少は」
侯爵は目を細めた。
「婚約破棄。聖女候補への迫害。処刑寸前」
一語ずつ、丁寧に置かれた。
「それに――なんでしたかな。ああ、そうだ」
彼は、心底おかしそうに言った。
「『この女は魔王です』でしたか」
・ ・ ・
笑いが、広がった。
さざ波のような笑いだった。悪意というより、上等な余興を見る顔だった。
「聖女候補というのは、随分と詩をお作りになる」
「教会の教育はそういうものなのでしょう」
「魔王とは。いや、失礼。近頃の子どもは寝物語を真に受ける」
私は、立っていた。
指先が冷たかった。
――笑われている。
私の罪が、余興として。
数万の焼けた背中が、この大広間では、上等な笑い話として消費されている。
否定してほしいわけではない。信じてほしいわけでもない。
けれど。
――笑わないでほしい。
そう思った瞬間、自分でも驚いた。
私は、怒っていた。
「侯爵閣下」
自分の声が、低く響いた。
近くにいた令嬢が、小さく息を呑んだ。
「その話は」
「おや、お気に障りましたか」
「――いいえ」
私は、口角を上げた。
マルグリット夫人に十一人の侍女を犠牲にして習った、あの微笑みを。
グレンツ侯爵の顔から、笑いが消えた。
「ご存じの通りでございます」
・ ・ ・
沈黙が落ちた。
侯爵は、しばらく私を見ていた。
それから、扇を閉じるように両手を下ろした。
「……なるほど」
声の温度が変わっていた。
「これは、失礼を申し上げた。ですが、ヴィオレット嬢。ひとつだけ、お尋ねしてもよろしいか」
「どうぞ」
「あなたは、何ができますか」
大広間の空気が張り詰めた。
――これが本題か。
「我が帝国は、血筋を尊びません。爵位も、出自も、他国の令嬢という肩書も、ここでは一片の値打ちもない」
侯爵の声は、もう笑っていなかった。
「問うのはただ一つ。何ができるか。それだけです」
「侯爵閣下」
「私の姪も、妃候補に名を連ねておりました。あれは十四で北方の砦を守り、二十で三度戦場に立った。剣も政も一流です。あれを差し置いて、あなたが選ばれた」
彼は言った。
「その理由を、この場の全員が知りたがっております」
・ ・ ・
「――ならば、私が答えよう」
声が、広間の反対側から響いた。
人垣が割れた。
アルヴィス様が歩いてくる。皇太子の正装だ。黒と金。あの夜と同じ、誰も見ない歩き方で。
「殿下」
グレンツ侯爵が頭を下げた。
「出過ぎたことを申しました」
「いや、正当な問いだ。帝国の作法に適っている」
彼は私の隣に立った。
そして、大広間を見渡した。
「諸君。ひとつ、正しておきたいことがある」
・ ・ ・
「私は、この令嬢を、憐れみで連れてきたのではない」
彼の声は大きくなかった。
それなのに、隅々まで届いた。
「政略でもない。アーデルハイドは小国で、この婚姻から帝国が得るものは何もない。むしろ私は、東の関税と二個師団と今年の穀物を差し出した」
どよめきが起きた。
「――正気ですか、殿下」
「安いと思っている」
彼は即答した。
「諸君が今、笑い話にしていたあの夜のことだが。私はあの場にいた。噂ではない。この目で見て、この耳で聞いた」
大広間が、静まり返った。
「聖女候補の告発を、私は一言残らず聞いた。そして、その上で彼女を選んだ」
彼は私を見た。
「私は、彼女の何ひとつを知らずに手を伸ばしたわけではない。知った上で、欲しかった」
――やめて。
私は俯いた。顔が熱かった。
こんなに大勢の前で。
「そして、問いへの答えだが」
彼は続けた。
「彼女に何ができるか、だったな」
・ ・ ・
「五日前、帰路で魔獣の群れに遭った。灰狼四十、それに甲板持ちの大型が一体」
騎士の何人かが、姿勢を正した。
「大型は私が受けるつもりだった。三十秒はかかったと思う」
彼は淡々と述べた。
「彼女は、一秒だった」
ざわめきが走った。
「首の付け根の一点を、正確に抜いた。しかも余波の向きを制御し、こちらに一片も飛ばしていない。ガイル、相違ないか」
「――相違ございません」
広間の後方から、太い声が返った。
「小官も、生涯であのような一撃を見たのは初めてでございます」
ざわめきが、大きくなった。
グレンツ侯爵の目が、変わった。
測る目から、別の何かへ。
「殿下。それは……真実でありますか」
「私は、彼女のことで嘘は言わない」
アルヴィス様は言った。
「――そして、これは私の私見だが」
彼は少しだけ声を落とした。
「この大広間にいる全員が同時にかかっても、彼女には届かないだろう」
・ ・ ・
静寂が、落ちた。
私は、俯いたまま動けなかった。
言ってしまった。
この人は、言ってしまった。
帝国は武力至上主義の国だ。強さこそが最高の美徳。ならば今の言葉は、称賛であると同時に、この場の全員への挑戦状でもある。
案の定だった。
「――お待ちください」
若い声が、人垣を割った。
・ ・ ・
進み出たのは、二十歳そこそこの青年だった。
背が高く、鍛えられた身体つきをしている。灰色の髪を短く刈り込み、正装の上からでも肩の筋が分かった。
グレンツ侯爵が眉をひそめた。
「ディーク。下がりなさい」
「叔父上。恐れながら」
青年は膝をつかなかった。
「殿下。ただ今のお言葉、帝国貴族として聞き流すわけには参りません」
「ほう」
「この場の全員が同時にかかっても届かぬ、と仰せられた。であれば、我々は皆、婦人一人に劣ると宣言されたに等しい」
彼は姿勢を正した。
「――帝国の作法に則り、確かめさせていただきたく」
ざわめきが、波のように広がった。
青年は、私を見た。
敵意はなかった。憎しみもなかった。若い、まっすぐな目だった。
そして、深く礼をした。
「ディーク・グレンツと申します。帝国騎士団第三隊、隊長を務めております」
彼は言った。
「ヴィオレット・ノクスハイム嬢。決闘を、申し込みます」
第15話もお読みいただき、ありがとうございました!
ついにヴィオレットの夜会デビューとなりました。
帝国流の「実力で示せ」という価値観が、ここで本格的に姿を現しましたね。
そしてラストは、まさかの正式な決闘の申し込み。
帝国では決闘は名誉ある文化ですが、ヴィオレット本人にとっては「そんなつもりじゃなかったのに……」という状況です(笑)。
次回はいよいよ、この物語最初の決闘回。
ヴィオレットが帝国貴族たちに何を見せるのか、ぜひ楽しみにしていただけたら嬉しいです!
それでは、また次のお話でお会いしましょう!




