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第13話 微笑みの練習

三日目に、木の器を卒業した。


正確に言えば、木の器は初日で割った。二日目に厚手の陶器に移り、これは三度目で成功した。三日目の朝、マルグリット夫人は薄手の白磁を卓に置いた。


私は、それを持ち上げた。


割れなかった。


「……割れません」


「割れませんね」


「割れませんでした!」


「はしゃがない」


叱られた。


けれど夫人の口の端が、ほんの少しだけ上がったのを、私は見逃さなかった。


・   ・   ・


「では、本日は表情に入ります」


その一言で、私の背筋が凍った。


「……表情」


「社交の場において、最も重要な技術です。所作は練習で必ず身につきますが、表情は当人の内側が出ます」


夫人は椅子を私の正面に据えた。


「まず、微笑んでみてください」


来た。


来てしまった。


私は覚悟を決めて、口角を上げた。


――優しく。柔らかく。恋愛小説に出てくる令嬢のように。


背後で、盆が落ちた。


・   ・   ・


「……あの、夫人」


「続けて結構です」


「今、侍女の方が」


「彼女は明日から別の部署に移ります。もともと決まっておりました」


嘘だ、と思ったが、追及する勇気がなかった。


「もう一度」


私はもう一度、微笑んだ。


夫人が、じっと私の顔を見る。


「口角の上がり方は適切です。左右の高さも揃っている。頬の上がり方も自然です」


「では」


「目が、笑っておりません」


「目」


「はい。口元が笑い、目が笑っていない。これを人は――」


夫人は言葉を選んだ。


「――値踏み、と受け取ります」


・   ・   ・


私たちは、目の練習に移った。


「目尻を、下げてごらんなさい」


私は目尻を下げた。


侍女が一人、壁際まで下がった。


「……眠たそうにしただけでは駄目です。眼球の力を抜くのです」


私は眼球の力を抜いた。


侍女が二人、扉の外へ出た。


「まぶたを、ほんのわずかに。三分の一ほど落として」


私はまぶたを落とした。


残った侍女が、姿勢を崩さないまま、ゆっくりと目を逸らした。震えていた。


「……夫人」


「はい」


「わたくしは、何をしているのでしょう」


「獲物を、選んでおられます」


・   ・   ・


昼までに、この部屋の侍女は全員入れ替わった。


私は鏡の前に立たされた。


「鏡なら、怖がりません」


夫人が言った。


「ご自分の顔を見ながら、ゆっくり作ってごらんなさい」


鏡の中の私が、こちらを見ていた。


黒髪。紅い瞳。白い肌。造作は悪くない、と思う。母によく似ている。


その顔が、口角を上げた。


――あら。


普通だ。


普通に、微笑んでいる。少し硬いが、じゅうぶん令嬢の範囲だ。おかしなところはひとつもない。


「……夫人。鏡では、できています」


「そうでしょうね」


「なぜ、人の前では」


「鏡は、あなたに怯えないからです」



夫人は静かに言った。


「あなたは人の前に立つと、相手の反応を先に読みます。読んで、身構える。身構えた瞬間に、目が仕事を始めるのです」


「目が、仕事を」


「相手の重心、間合い、退路。あなたはそれを見ておられる。無意識に」


私は、口を開けたまま鏡を見た。


――そうだ。


見ている。


十七年、ずっと見ていた。人が私を怖がるかどうかを測るために。そして、そのもっと前から。前世で、目の前の人間が敵かどうかを一瞬で判断するために。


私の目は、まだ戦場にいる。


・   ・   ・


午後、私は庭に出た。


石畳のベンチに腰かけて、ぼんやりと空を見ていた。


情けなかった。


歩き方は直った。お辞儀も、敗者の礼を捨てて新しい形を覚えつつある。器も割らなくなった。


けれど、笑えない。


十七年憧れ続けた「普通の女の子」の、いちばん基本の部分ができない。


「――こんなところにいた」


顔を上げると、アルヴィス様が立っていた。


「探した」


「申し訳ございません」


「謝ることではない。隣に、いいか」


「どうぞ」


彼は隣に座った。


しばらく、二人とも黙っていた。


「マルグリット夫人から報告書が上がってきた」


「……はい」


「読み上げてもいいか」


「やめてください」


「読む」


彼は紙を広げた。


私は両手で顔を覆った。


・   ・   ・


「――『三日目。白磁の茶器、破損なし。歩容、良好。礼の形、修正進行中』」


淡々とした声だった。


「『表情訓練を開始。侍女の交代を要す』」


「……」


「『交代した侍女も交代を要した』」


「……」


「『本日中に、当該室の侍女は延べ十一名が交代した。宮の侍女は総勢六十名である。この調子では六日で枯渇する』」


「もう、やめてください」


「まだある。『所見。本人に悪意はなく、むしろ過剰に善意である。問題は技術ではない』」


彼は紙を下ろした。


「『追記。ヴィオレット様は、本日一度も、他人を責めなかった』」


私は、顔から手を離した。


「え」


「そう書いてある」


彼は紙を差し出した。


見た。書いてあった。あの几帳面な字で、確かに。


「……夫人は、なぜ、こんなことを」


「さあ。だが、あの人は世辞を書かない」


・   ・   ・


「アルヴィス様」


「うん」


「わたくしは、笑えるようになるでしょうか」


「なる」


即答だった。


「なぜ、そう言い切れるのですか」


「もう、何度も見ているからだ」


私は彼を見た。


「あなたは焼き菓子を食べたとき、笑っていた」


「え」


「宿場で、子どもに『強い』と言われたとき。石碑の話を聞いていたとき。今朝、器が割れなかったとき」


彼は指を折った。


「あと、私が読み上げた報告書を聞きながら、二――いや、四度」


「そんなはずは」


「あなたは、自分が笑っている自覚がない」


彼は少しだけ身を乗り出した。


「鏡の前で作ろうとするから、できないんだ。あなたの笑い方は、作るものじゃない」


・   ・   ・


私は、返す言葉がなかった。


熱が、顔に上ってくるのが分かった。褒められると挙動不審になる。これは十七年治っていない。


「……あの」


「うん」


「そういうことを、真顔でおっしゃるのは」


「思っていることを言っている」


「心臓に、悪いです」


「それは困った」


彼は少し考えて、言った。


「では、慣れてくれ」


「慣れませんっ」



・   ・   ・


そのとき、風が吹いた。


庭の木立が揺れて、白い花弁が舞い上がった。石畳の上を滑って、私の膝に一枚落ちた。


私はそれを摘まみ上げた。


鈴蘭ではない。名前を知らない花だった。


「これは」


「タリアの花だ。帝国の東でしか咲かない」


「きれいですね」


「毒がある」


私は顔を上げた。


彼は、真顔だった。


「根に。触れるぶんには問題ないが、煎じると危ない。昔は暗殺によく使われた」


「……」


「あなたは、危ないものを可愛いと思うのだったな」


私は、彼を見た。


馬車の中で、そんな話をした。五日かけて。鈴蘭を好きだった理由として。


覚えていた。


覚えていて、この庭に、この花を植えさせたのだ。


そう気づいた瞬間。


私の口から、勝手に息が漏れた。


笑い声だった。


「――ふふっ」


止まらなかった。


おかしくて、それから嬉しくて、なぜだかわからないけれど胸がいっぱいで、私は花弁を握ったまま笑った。声を出して笑った。


十七年で、たぶん、初めてだった。


・   ・   ・


ふと、視界の端で何かが動いた。


生垣の向こうに、侍女が三人いた。


洗濯物の籠を抱えたまま、こちらを見て、固まっている。


私は慌てて口元を押さえた。


「あ、あの、これは」


三人は顔を見合わせた。


そして――どういうわけか、そろって胸に手を当て、深々と礼をして、走り去っていった。


「……なぜ?」


私は隣を振り向いた。


アルヴィス様は、答えなかった。


答えずに、片手で口元を覆っていた。耳の先が、うっすら赤かった。


「アルヴィス様?」


「……いや」


彼は掠れた声で言った。


「今のは、少し、堪えた」


・   ・   ・


部屋へ戻る廊下で、私はまだ落ち着かない気分でいた。


指先に、白い花弁の感触が残っている。


角を曲がったところで、影が動いた。


シェラだった。


壁に背を預けて、腕を組んで、じっと私を待っていた。


「お嬢様」


「……シェラ?」


彼女の目が、いつもと違った。


侍女の目ではなかった。


「少し、お話がございます」





第13話までお読みいただき、ありがとうございます(●´ω`●)


今回は「微笑みの練習」でした。

礼法や歩き方は努力で身につけられても、「笑顔」だけはどうにもならないヴィオレット。

目だけが戦場に残っている、というマルグリット夫人の指摘は、彼女の二つの人生を象徴する場面でもあります。


そして最後。

ヴィオレットは「笑おう」として笑えたのではなく、思わず笑ってしまいました。


アルヴィスがずっと言っていた「あなたはもう何度も笑っている」という言葉が、ようやく本人にも届いた瞬間です。


……ちなみに、侍女たちが一斉に礼をして走り去ったり、アルヴィスが耳まで赤くしてしまうほどの笑顔……一体どれだけ眩しかったのでしょうね。

私も気になります。


それでは、次回もよろしくお願いいたします!

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