第12話 皇太子妃教育、初日
案内された部屋の扉が開いた瞬間、私は足を止めた。
「……あの」
「気に入らないか」
「いえ、そうではなく」
窓辺に、花が活けてあった。
白い小さな花が、房になって垂れている。鈴蘭だ。
――子どもの頃に好きだった花は。
馬車の中で、聞かれた。
答えたのは五日前だ。屋敷の裏庭に自生していて、母に「毒があるから触ってはいけません」と叱られた、と。だから好きだったのだと。危ないものを可愛いと思うのは、私の悪い癖かもしれない、と。
そんな話まで、私はしたのだった。
書棚を見た。
恋愛小説が並んでいた。背表紙を撫でていくと、アーデルハイドで流行った作家のものが混じっている。翻訳ではない。原語のまま取り寄せてある。
寝台の脇の卓には、焼き菓子の小箱がひとつ。
椅子の背には、薄い毛織の膝掛け。
私はしばらく、部屋の真ん中に立っていた。
「……五日で、ここまで」
「四日だ。手配は二日目の夜に出した」
「二日目」
「あなたが答えてくれた端から、早馬に持たせた」
彼は何でもないことのように言った。
「足りないものがあれば言ってくれ。すぐ揃える」
「……足りません」
「何が」
「心の、準備が」
彼は少し考えて、真面目な顔で言った。
「それは、私には用意できないな」
・ ・ ・
翌朝から、皇太子妃教育が始まった。
現れたのは、六十がらみの女性だった。
背筋が定規のようにまっすぐで、灰色の髪をひと筋も乱さず結い上げ、黒に近い紺の裾長の服を着ている。名をマルグリット・ダーレンと言った。
「三代にわたり、この宮の礼法を預かっております」
「……よろしくお願いいたします」
「まずは、歩き方から拝見します」
私は部屋の端から端まで歩いた。
マルグリット夫人は、片眼鏡越しにそれを見た。
そして、言った。
「結構です」
「……はい?」
「歩容に乱れがありません。重心の移動が滑らかで、視線が定まっている。裾さばきも問題ない。皇太子妃として何ら不足はございません」
私は面食らった。
「あの、本当に」
「わたくしは世辞を申しません」
夫人は片眼鏡を外した。
「ただし、ひとつだけ」
「はい」
「威圧が過ぎます」
・ ・ ・
「威圧」
「ええ。歩いておられるだけで、部屋の空気が下がります」
夫人は事務的に続けた。
「先ほど、後ろに控えていた侍女が三人。うち二人が壁際まで下がりました。あなたが振り返った瞬間です」
私は振り返った。
侍女たちが、跳ねるように背筋を伸ばした。
「……申し訳ありません」
「謝罪は不要です。改善なさい」
「改善」
「柔らかく在ってください。緩めるのです」
私は、深く息を吸った。
肩の力を抜く。顎を引きすぎない。指の先まで意識を通して、優しく。
そして、もう一度、部屋の端まで歩いた。
背後で、何かが倒れる音がした。
振り返ると、侍女がひとり、椅子ごと倒れていた。
「……緩めましたが」
「緩んでおりません」
夫人は淡々と言った。
「むしろ増しました」
・ ・ ・
次は、お辞儀だった。
これは自信があった。屋敷で、鏡の前で、数え切れないほど練習した。角度も、間の取り方も、母から合格をもらっている。
私は裾を摘まみ、膝を折った。
「――結構」
夫人の声が、初めて僅かに揺れた。
「……見事です。角度、静止、所作、いずれも申し分ない。この宮に来てから、これほど正確な礼を見たことがありません」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「あれは、臣下が受ける礼ではありません」
「え」
「敗者が、勝者に差し出す礼です」
私は、固まった。
――そうか。
前世で、私が誰かの前で膝を折ったことは、一度もない。
けれど、折られたことなら、数え切れないほどある。城が落ちたあと、生き残った領主が私の前でそうした。私はそれを上から見ていた。
私は、その形を覚えていたのだ。
覚えていて、鏡の前で、なぞっていた。
「……直します」
「直りますか」
「……努力します」
・ ・ ・
そして、茶の時間になった。
「では、茶器の扱いを」
侍女が、白い陶器の一式を運んできた。
薄く、軽く、透けそうな器だった。縁に金が回してある。
私は身構えた。
――大丈夫だ。
十七年の経験がある。持ち方は分かっている。指の腹で支え、力を入れない。呼吸を止めない。過去の失敗は、全部、緊張したときに起きている。
落ち着いて。
深呼吸をして。
私は、把手に指をかけた。
「――お待ちを」
夫人の声が飛んだ。
「え」
「その持ち方では、小指が」
ぱきん。
・ ・ ・
静寂が落ちた。
私の右手には、把手だけが残っていた。
本体は膝の上に転がって、そこから紅茶が布地に染みを広げていた。破片が三つ、卓の上に散っている。
侍女が二人、後ずさった。
若い一人が、口を押さえて震えていた。
マルグリット夫人は、片眼鏡を持ち上げて、破断面を覗き込んだ。
「……ほう」
「も、申し訳ございません! すぐに弁償を――」
「弁償は結構です」
「ですが」
「見なさい」
夫人は破片のひとつを指さした。
「割れ方が均一です。ひび割れではなく、剪断されている。これは、握り潰したのではありません。一点に、正確な力がかかったのです」
「え」
「わたくしの見立てでは、把手の付け根に、髪一筋ほどの狂いもなく力が集中しております。これを狙ってやれと言われても、この宮の誰にもできません」
私は、自分の右手を見た。
「……それは、褒めておられるのですか」
「いえ」
夫人はきっぱりと言った。
「困っております」
・ ・ ・
その後、私は五客を割った。
一客目は把手が折れた。
二客目は、把手を持たないよう本体を包んだら、底が抜けた。
三客目は、手袋を三枚重ねてみた。逆に感覚が鈍って、縁を欠いた。
四客目は、シェラに支えてもらいながら持ち上げようとして、シェラごと卓を三寸ずらした。
五客目は、割れなかった。
割れなかったが、私が息を吐いた拍子に、卓の脚が軋んだ。
「……本日は、ここまでといたしましょう」
マルグリット夫人が、静かに言った。
「あの、夫人」
「はい」
「わたくしは、皇太子妃には」
言いかけて、私は口をつぐんだ。
言ってどうする。ここで泣き言を言ったところで、事態は何も変わらない。
夫人は、しばらく私を見ていた。
それから、意外なことを言った。
「ヴィオレット様」
「はい」
「わたくしは、この宮で四十年、礼法を教えてまいりました。皇族、貴族、他国から嫁いだ姫君。数え切れぬほど」
「……はい」
「五客割った方は、初めてです」
「申し訳――」
「ですが」
夫人は、片眼鏡をしまった。
「一日で五度も、諦めずに手を伸ばした方も、初めてです」
私は、顔を上げた。
夫人は、もうこちらを見ていなかった。
「明日は、木の器から始めましょう。順を追えばよろしい。……失礼いたします」
彼女は寸分の狂いもない礼をして、退出した。
・ ・ ・
扉が閉まってから、私はしばらく椅子に座っていた。
膝の上の紅茶の染みが、じわじわと乾いていく。
情けなかった。
けれど、それだけでもなかった。
「……お嬢様」
シェラが、布巾を持って近づいてきた。
「お召し替えを」
「ええ」
「あの婆さんは、悪くありませんね」
「シェラ。婆さんは駄目よ」
「失礼いたしました。あの、老練な御方は」
そのとき、扉が開いた。
・ ・ ・
アルヴィス様だった。
執務の途中らしく、上着を肩に引っかけたままだった。彼は部屋に入るなり、まず私の手を見た。
「怪我は」
「……ございません」
「そうか」
それから、卓の上を見た。
破片が三つ、まだそこにあった。侍女が片づける前だった。
私は身を縮めた。
説明しなければ、と思った。五客割ったこと。弁償を申し出て断られたこと。木の器から始めることになったこと。
けれど、口を開く前に、彼は破片を一つ摘まみ上げた。
そして、しげしげと眺めた。
長いこと眺めた。
「……あの、アルヴィス様」
彼は破片を光にかざしたまま、真顔で言った。
「完璧です」
皆さま、第12話までお読みいただき、本当にありがとうございます!
今回は「皇太子妃教育編」初日でした。
ヴィオレット本人は大真面目なのですが、礼法は満点なのに「威圧がすごい」、お辞儀は完璧なのに「敗者が勝者へ捧げる礼」、そしてティーカップは五客……。
私自身も書きながら笑ってしまいました。
一方で、マルグリット夫人はただ厳しいだけの人物ではありません。
できていることはきちんと認め、できないことには方法を考える。
彼女もまた、ヴィオレットにとって大切な出会いの一人になります。
そして最後のアルヴィス。
普通なら「大丈夫か?」で終わる場面なのに、彼だけは破片を見つめて「完璧です」。
……何をみて完璧なんていったんでしょうね、この人。
次回からは帝国宮廷での生活が本格的に始まります。
街道では歓迎されましたが、宮廷はそう簡単な場所ではありません。
引き続き、ヴィオレットとアルヴィスを見守っていただけたら嬉しいです。
それでは、次回もよろしくお願いいたします!




