(2)
⒉
「アはハハハはハハ!」
吉野先生の振りかぶった一撃を、倒れたまま転がって躱す。
華奢なはずの吉野先生の右腕が、地面に突き刺さっていた。
最悪の展開が、最悪の状況で起きた。
ここにはララも居ない。
逃げ込める建物も近くには……無い。
「くそ……」
身を起こしてみたものの、恐怖と混乱で足が震えて後退るのが精一杯だ。
「――アは」
腕を引き抜き、こちらへ振り向いて先生は笑った。
「先生! 正気に戻って下さい!」
「アハハはハハ!」
先生が走り出す。
……捕まったら多分、助からない。
咄嗟に工房で見つけた簡易術式の一つを思い出す。
「疎は嵐……疎は鏃!」
目の前にかざした手の平から、圧縮された風の塊が先生の進行を押し留める。
ララに埋め込んだ五色の宝石のうちの一つが持つ力を使ったものだ。
「邪なるを吹き払い、弱きの眠りに安息を……!」
「――!」
先生の身体が、数メートルも後方に吹き飛ばされた。
同時に全身から、大きく力が抜けて行くのを感じる。
魔術の才覚に乏しい僕が無理矢理使えば、こんなに消耗するのか。
けど、これで逃げる時間くらいは……稼げた、と思ったのだけれど。
「アは」
むくりと、吉野先生が上体を起こす。
「……僕じゃあ急場凌ぎ程度にしか使えないのか、それともやっぱりララが近くに居ないと力が足りないのか……?」
この消耗じゃあ、あと簡易術式も使えて一つ。それで駄目なら万事休すだ。
「アはハ!」
ゆらりと立ち上がった「吉野先生だったもの」が僕へ目掛けて再び走り出したのと、
「ちょいと失礼」
僕の横を、見知らぬ人影が通り抜けて行ったのは同時だった。
「――!」
人影は吉野先生の攻撃を寸でで躱すと、まるで子供が鉄砲の真似事でやるような形で人差し指を相手の額に押し当てた。
「……ばぁん」
ただ一言。
その一言を言い終えると同時に、吉野先生の動きが一瞬痙攣したかと思うとピタリと停止する。
「……」
そして数秒間の沈黙の後。
先生は膝から崩れ落ち、地面に横たわった。
額には、小さな孔が空いているように見えた。
「先生!」
「おおっと」
思わず駆け寄ろうとした僕を、その人は手で制した。
街灯に照らされた長い金色の髪。
白い肌に赤い瞳。
外国籍らしきその女性は、苦笑混じりに首を振る。
「やめておきなさい。彼女はもう君の先生じゃあない。屍人は人には戻れない」
「っ……」
「そして屍人の滅びは、消滅だ」
見ると、倒れ伏して動かなくなった吉野先生の身体が、足先から崩れ始めていた。
……同じだ。先日の女子高生の屍人と。
「……はっ……はっ……」
「大丈夫? 顔色悪いよ?」
既知の人間が目の前で崩れ去って行く様を見て、冷静でいられるわけがない。
この人が助けてくれなかったら自分が死んでいた可能性が高かったとはいえ、気分のいいものではない。
「……」
やがて吉野先生だったものは、跡形もなく消失してしまった。
「……さて、これで危機は去ったわけだけど――」
彼女は視線をゆっくりと、呆然としているこちらへと向ける。
「――キミ、さっき面白い魔術を使っていたね」
その瞳には、好奇心のようなものが強く宿っているように見えた。
「私はクラリッサ。クラリッサ=A=マグダウェル。留学生ってやつだね」
流暢な日本語でそう名乗った彼女は、まじまじと僕の顔を覗き込んでくる。
「……」
「助けてあげて名前まで名乗ってるんだから、キミも名前くらい教えてくれたっていいんじゃないかい?」
「み……宮原……昇、です」
「ミヤハラ……ノボル……?」
「……? どうか……しましたか?」
僕が訝し気な視線を向けると、彼女ははたはたと手を振って笑う。
「いやいや、ステキな名前だと思ってさ」
「どうも……と言うか、日本語……上手なんですね……」
「留学もこの国の文化研究が目的だったからね」
外国の女子って、初対面でもこんなにフランクなものなんだろうか。
いや、それより何より、まずは彼女の素性だ。
「あの……、マグダウェルさんは……」
「んー……なんかむず痒いし。私の事はクラリッサでいい。私もキミの事は昇クンと呼ぶから、もっと楽に話しなよ」
「じゃあ、ええと……クラリッサはその、やっぱり魔術を使う人……?」
「そうだよ。元素魔術はそこそこ程度の自信アリって所かな。ちなみにさっきのは水の元素魔術だよ」
「あの指鉄砲みたいなのが……?」
「作用範囲を絞って超高圧で噴射された水は、金属や鉱物だって破壊するんだよ」
……確かに、工業分野なんかではウォーターカッターなんてものが加工に使用されていたりすると、テレビかなんかで見たことがあるけれど。
「けど、魔術起動のための詠唱……してなかった気がするんだけど」
「そりゃあ、元素魔術だもの」
「……?」
「ありゃ。キミってばもしかして、そういうのよくわからずにさっきのやってたの?」
クラリッサは珍しいものを見るような目で僕を見る。
「え……あー……うん」
「魔術の詠唱ってのは『術式の理屈を通す』ことなんだ。神聖魔術や死霊魔術……それにこの国の神職が扱う祝詞なんかもそうだけど、上位存在に『力を借りる』ものは理路整然とした詠唱を以て奇跡の理屈を通す必要がある。けれど元素魔術は術者本人がその理屈を理解していさえすれば、長ったらしい詠唱なんて要らないわけ」
「だから、さっきのはあんなに短い時間で……」
「まあ取り回しが楽な分、威力はあれでも少し控えめなんだけどさ。……で、本題はキミだよキミ。昇クン。キミはぱっと見まだ駆け出しっぽいけど、さっきの魔術はどこで習ったんだい?」
「習ったと言うか……死んだ婆ちゃんが残した中に、魔術に関するものがあって」
「婆ちゃん? ええと……お母さんのお母さん?」
「そう。宮原静って……」
「……」
「どうかしたの?」
「……宮原静……もしかして、人形使いの魔術師?」
クラリッサは目を丸くした。
その事実が、余程驚きの話だったらしい。
「クラリッサも婆ちゃんの事、知ってるの?」
「そりゃあ彼女は、魔術の世界では有名人だったからね。逸話だけでも枚挙に暇がない」
こんな所で、婆ちゃんの事について知っている人に会う事になるとは。
「あの……今度でいい。婆ちゃんつにいて知ってる話、聞かせて貰えないか? 婆ちゃん、自分が魔術に携わっていた事自体、教えてくれないまま死んでしまったんだ」
「……勿論。今度と言わずこれからでもいいよん」
「え……でも、時間とか大丈夫なの? もう結構遅いけど……」
「少なくとも私、今のキミよりは強いから大丈夫だよ」
「……それはまあ、確かにそうだけど」
「それにほら、私一応キミの命の恩人なワケだし? 丁度お腹空いたなーとか思ってるワケよ」
「はあ」
「だ・か・ら。私はこれからキミに着いて行って、晩御飯を御馳走になるの。んで、私はキミのお婆ちゃんに関して知ってる話を語って聞かせる……どう?」
かくして。
命を救ってくれたクラリッサと知り合い、我が家に招いて食事を振る舞う事になったのだけれど。
それがまさかあんなことになろうとは、この時の僕には知る由もなかったのだ。




