第2話 学びの森
「ぎゃああああ!! うげ……うぉ……ぐはぁ!!」
アミティ村を出てから二時間後、全身青色のタイツのナギヒコは赤色のクマに似た魔物にマウントを取られ、そこからパウンドされていた。
そして、最終的には勢いよく投げ飛ばされ、身体を大木に叩きつけられたところで、試合は終了した。
クマは鼻で笑う様な呼吸を漏らし、中指を立てるような仕草をした後、森の奥へと消えて行った。
「情報量が多くて草」
ブルースは初めこそ込み上げる感情を抑えようとしたが、今ではお腹を抱えて笑い転げている。
「この鮫野郎!! 俺がボコボコにされる姿がそんなに面白いか!!」
息も絶え絶えな全身タイツの不審者が叫ぶ。
しかし、それは悪手だ。ブルースの激情は更に加速する。
「あはははは!! 絵面がやばい!! お腹が痛い!! 死んじゃう!!」
「お前……絶対に許さないからな」
ここから話は少し遡る。
『難しい』
『でしょ? 創作物ではよく見る念話だけれど、現実では初めからあんな器用には出来ないよ。どうしても余計なことを考えちゃうからね。初めの内は一つずつ短い単語を思い描いて送る。そんな感じで慣れていくしかない。そうじゃないと、余計な思考が混じるからね。まぁ、これは精霊としての能力なわけだから、そもそも僕に意味さえ伝われば平気だよ』
『分かった。それじゃあ始める』
ナギヒコは深い森の中でまずはブルースから念話の説明を受けていた。そして、その後、腕輪の力を試すために、どこか恥じらいながらも「シャークライ」と唱えた。すると、彼の身体は青色の全身タイツに包まれていった。しかし、『魔鎧・大鮫海』という大それた名前とは裏腹に、強いて鮫の要素を挙げるとするならば、頭部はそれっぽいデザインに見えなくはない程度のクオリティ。
この時点でブルースは吹き出しそうになったが、覚悟を決めた少年を傷付けるわけにはいかないと気合と根性で耐えた。
「おぉ、すごい。体が軽い。でも、ちょっと待って……思っていたよりも痛いかも。全身をとんでもない筋肉痛が襲っている感じ」
「まぁ、呪いの装備みたいなものだからね。だからこそ、他にも鮫と竜の血を持つ者がいる中で、君が選ばれたわけだし」
「……我慢できないほどじゃないから良いか」
ちなみに常人なら数分もしない内に音を上げながらのた打ち回る程度には大きな負荷と苦痛が発生している。
「じゃあ、ちょっとジャンプ! おお!」
木の枝の上に飛び上がったナギヒコは興奮を隠せない。ある程度の実力者であれば造作もないことだが、やはり人間離れした一族の中で凡人として生きてきたナギヒコには、たったそれだけのことで十分に感動できた。
それから走ったり、飛び跳ねたりすることを繰り返した後、ついに実技に映る。
まずは森の中を縦横無尽に駆け回る兎の魔物を捕まえた。流石に身体能力と感覚や思考が追い付かず、随分と時間が掛かってしまった。
そして、今は空腹ではないし、意味のない殺生はしないという理由で逃がす。
その際、ナギヒコは僅かながらブルースが不満そうな表情をしていることに気付いたが、既に命を奪う試練は乗り越えている事実と、やらなければならない時はやるからと宥めた。
しかし、その時はすぐにやって来た。
「いきなりレベルアップし過ぎだろ」
体長三メートルほどの赤毛の熊が、ナギヒコの目の前に立っていた。
外見は熊ではあるものの、まるでそういう魔物であるかのように二足歩行が様になっているため、ナギヒコは初めこそファンタジーではお馴染みの獣人という人種なのかと思ったが、荒々しい唸り声がそれを否定した。
「やるならやろうか」
先ほどの兎の時とは違い、相手から完全に敵意を向けられている以上、ナギヒコのスイッチは入っている。それは試練でシリアルキラーの女を屠った時と同じ感覚だった。
そして、拳を固め、熊の腹部に全力の一撃を与えた。
「……はぁ?」
まるで熊という生物ではなく、どちらかと言えば無機物の巨岩に拳を振るったような感覚だった。
呆然としているナギヒコに対して、熊は見せつける様にして指を折り畳む。
例え言葉は通じなくとも、その意図を理解するには十分だ。
「お前如きに爪を使うまでもないってか……」
完全なる挑発にナギヒコは怒りの笑みを浮かべた。
「この野郎、舐め……」
更にナギヒコが小物染みた台詞を続けようとしたところで、その頬に熊の拳が突き刺さる。そして、そのまま吹き飛ばされると、勢いよく地面を転がってゆく。
「やばいよ、ナギヒコ。マジでやばいかもしれない」
未だブルースは笑いの衝動を抑えていたが、その限界が着実に近付いてきていることを感じていた。
「やばいかもしれないけど……勝つさ」
ブルースのやばいの意味を履き違えている上、何か負けそうな台詞を吐き出しながら、ナギヒコは熊に向かっていく。
それから何度吹き飛ばされてもナギヒコは立ち上がっていたが、やがては崩れ落ちてしまった。
「クッソ……」
その生まれと体質上、心身の痛みよりも体力の限界が先に来たのは仕方がないだろう。
その一方、熊は特にダメージを追った様子もなく、激しい呼吸をしながら仰向けに倒れるナギヒコの真横で小刻みに屈伸している。
「この熊野郎……煽り慣れてんじゃねぇ!!」
初めて聞くツッコミを入れながらナギヒコは立ち上がると、最後の力を振り絞る。
拳を固めた瞬間に起こった僅かな変化に気付く余裕もなく、その一撃が熊の腹部に放たれた。
そして……
「……グゥ」
僅か一メートル。たったの一メートルだが、熊の巨体は後退し、初めて苦悶に近い鳴き声を上げた。
そして、スイッチが入ったのは熊も同じだったのだろう。
命こそ取られないまでも、ここまでボコボコという言葉を体現する光景はないだろうと、思わず誰もがスタンディングオベーションしてしまう程に滅多打ちにされた。
そして、現在に至る。
「なぁ、ブルース。あんなのスタート地点の村付近に出て良い魔物じゃなくない? まぁ、そこがゲームとの違いだとは思うけどさ」
戦闘や命のやり取りに慣れていないという理由が解決したとしても、全く勝てる想像が出来ない相手、ナギヒコは弱々しく「シャークオフ」と唱えて装備を解除しつつ、深く溜息を吐いた。
「敗北が確定している戦闘。まぁ、俗に言う負けイベってやつだと思って諦めなよ。でも相手が拳を使ってくれて良かったじゃん。爪や牙を使われていたら流石に死んでいたよ」
「それは……まぁ、そうだけど。というか、中指を立てたり、屈伸で煽られたんだけど、あの熊って地球からの転生者とかじゃないよな?」
先ほど熊が行った屈伸運動は、FPSなどのオンラインゲーム上で主に煽り行為として使用されている。
「まぁ、有り得ないわけではないけれど、むしろ転生者の真似をしている可能性の方が高いかも。恐らく、あの魔力量と体格だと数百年は生きているだろうし、どこかで出会っていてもおかしくはない。ちなみに熊野郎ではなく、彼女はメスだから今度会ったら謝った方が良いよ」
「碌でもない転生者だなオイ……というか、魔物って言葉が通じているのか? いや、竜種みたいな特別な魔物は分かるけど」
「うーん、何度も言うけれど、地球の常識と違うからね。魔素や魔力というのは未知の部分も多いんだよ。だから魔力量の多い魔物は言葉を理解したり、そこまでいかなくとも感情を読み取ることはある」
「なるほどな。うん? ということは、俺が熊野郎って言ったから怒らせた可能性があるのか?」
「大いに有り得るね。多分、熊子さんはお腹が空いていないけれど、縄張りに全身タイツの変態がいたから追い出そうとした。何度ボコしても向かってくる変態に何だか楽しくなってきた熊子さん。そして、ついに満身創痍になった相手をいつか転生者がやっていた煽り行為を真似る。しかし、突如強まった変態の一撃を喰らって驚くが、それよりもオス呼ばわりされたことにブチギレ……みたいな」
「色々と説明されると納得する部分はあるけど……変態って言うのやめない?」
「変態だから仕方がないよ。身体能力の向上効果を除けば、ボンキボンテで売っているコスプレ衣装よりチープだもん」
ナギヒコは何か言い返そうとしたが、鏡を見るまでもなく、反論の余地はないと判断した。
しかし、熊一匹を倒せないとなると、マザーシャークが云々というレベルの話ではなくなる。
ナギヒコが「早くも修行編の開始かな」などとぼやいていたが、ブルースは呆れたように、それでいて優しい声音でこう言った。
「君はまだ自分の異常性に気付いていないんだね。まぁ、実感しろというのも難しい話だろうけどさ」
「はぁ? どういう意味だよ?」
「だから痛みへの耐性と、良いような悪いような、真っすぐなような、歪んでいるような、よく分からない精神力だよ」
「さては褒めてはいないな?」
「あのさ……君は家族が異世界人よりだったせいで自己評価が低いけれど、凡人なら痛みに耐えかねて泣き叫んだり、心が折れて逃げ出したり、故郷に帰りたいと喚き散らすのが普通なんだよね。例えば通り魔のニュースを見ながら『こんな犯人、俺がいたら取り押さえていた』とか豪語する人間は珍しくないけれど、彼らの大半は刃物で切り付けられる痛み、犯人の瞳に宿る狂気、訪れる死への恐怖、それらを一つも体験したことはない。だから実際にその場にいたら身動きも取れず、仮に行動できてもちょっと刺されたくらいで、痛いだの助けてだの喚くだろうさ」
ブルースはそこで少し間を置いて、ナギヒコの目の前にやって来るとヒレを突き付けながら続ける。
「その点、君は強い。強過ぎると言ってもいい。何度滅多刺しにされても立ち上がっているようなものなんだよ。例え死ななくても痛いものは痛い、怖いものは怖い、だからこそ普通なら心は折れているからね。そして、僕はそんな君の強さを信じている。いや、確信していると言ってもいいかな? 君の強さは証明される。いや、既に一度証明されている」
「……証明? 俺、何かしたっけ?」
ナギヒコはブルースの言葉を受けて記憶を辿るか、熊子にボコボコにされた自分の姿しか思い浮かばない。
「それを僕が答えるのは無粋だろうね。君自身が見付けられるはずだよ。そして、きっとその時は近い。まぁ、まずは戦闘と念話の練習でもしながら旅を始め……ん?」
と、その時ブルースの視線はアミティ村の方に向く。
「どうした?」
ナギヒコが尋ねるが、ブルースは何も答えずに宙を泳いで空へと向かう。そして、アミティ村の間近に迫る複数の不穏な気配を感じ取った。
(またもやご都合主義の展開……さっきの熊子といい、随分とイベントをぶち込んでくるじゃないか。先の大戦でさえ無視していたのに、ナギヒコの物語には随分と干渉してくるし、しかも急かしてくる……まるでドパガキみたいな神だね。あの装備が原因? いや、今までの歴史から考えて、生み出したことすら忘れていそう。となると、暇潰しに色々な世界の虫けらを観察していたら、奇妙な新種を見付けて興味を持ったと言ったところかな。厄介だね)
ブルースは溜息を吐くと、こちらを見上げる少年に憐憫の情を抱きながらも、彼の行く困難な道筋に幸福が訪れることを願った。




