第1話 旅立ち
白い空間からまたしても渦潮に飲まれたはずの凪彦は浮遊感を覚えていた。
と気付くが早いか、今度は落下が始まる。
「……おい、ブルース」
「どしたん? 話聞こか?」
「これどうなってんの?」
「まぁ、見ての通り、普通に地上に向かって落下しているよ。後、十秒で地面と衝突するね」
「お前、ふざけ……」
地面の震えと鈍い音が鳴り響き、広範囲に土埃が舞う中、鮫守凪彦は、否、ナギヒコ・サメモリは仰向けに寝転がり、空を見上げている。
「空ってこんなに広いんだなぁ」
異世界生活が始まり、開幕二十秒ほどで全てのやる気を失くしたナギヒコだったが、そんな彼に駆け寄って来る影があった。
「おっ、ヒロインの到来か?」
ナギヒコがお約束を期待するかのように上体を起こすと、そこには随分と不機嫌そうな表情の老人が立っていた。
「えっと……こんにちは。俺はナギヒコです。お騒がせしてすみません」
この世界では平民が家名を持っているのは珍しく、更にはナギサ・サメモリに関しては彼女の半生を元にした演劇などが存在し、歴史書に乗る程には有名。だからこそ、ナギヒコは下の名前だけを伝えた。
老人は一瞬躊躇う素振りを見せたが、ナギヒコの作り笑いの表情を見つめた後、意を決したようにこう叫んだ。
「お前、アノホコしたんか!!」
こうしてナギヒコは、すっかりブルースに意味を聞きそびれていた言葉と再会したのだった。
「つまり、あの祠に行ったんかとか、壊したんかみたいな奴を略してアノホコなのか。えっ、でも略し方が世界共通なのはおかしくない? そんなにご家庭に祠ってあるの?」
紆余曲折あり、老人の家に案内されたナギヒコ。どうやら彼はアミティという名の村の一角に落下したらしく、先ほどまでは騒動を聞きつけた村人たちも集まっていた。
「……お前、さっきから何を独りでぶつぶつと言っとるんだ?」
「えっと……ここにいる小さなサ……精霊ですけど」
ナギヒコが鮫という言葉を飲み込んだ。この世界では鮫の存在自体を嫌悪する人種も少なくはないという話を聞き、幾ら魔物ではないとはいえ、視認されていない限りは姿形には触れないでおこうと判断したためだ。
「……なるほど、見た目通り、お前さんは頭がやられているのだな。可哀想に」
バーグと名乗った老人は同情するかのような瞳でナギヒコを見た後、古いカップに水を入れて差し出した。
そして、ナギヒコがどうなっているのかをブルースに問いただそうとしたところで、不意に頭の中に声が響いた。
『ごめんよ、ナギヒコ。言い忘れていたけれど、基本的に精霊の姿は普通の人には見えないんだ。ただし、声だけ聞こえる人は少なくはないから、混乱を避けるために人目がある場所では念話……俗に言うテレパシーで届けるよ。後でやり方を練習しよう』
ナギヒコはブルースに対して小さく頷くと、気を取り直してバーグに尋ねる。
「やっぱり……俺の見た目って怖いですか? この辺りだと普通だと聞いたんですけど」
『そっちなの? 祠のことを聞きなよ』
「何を言っとる。その刻印が普通なわけないだろうが。そこまで目立つ紋様を刻んでおるのは、人里には降りてこぬ山や森の民族か名のある犯罪者くらいのもんだ。さっきも注意したら殺されるかもしれんと内心では思っとったわ。ただ、代々あの祠を守って来た以上、言わないわけにもいかんからな」
ナギヒコは先ほどバーグが見せた躊躇いの意味を正確に理解した。今すぐにでも肩で休んでいる子鮫に文句を言いたいところだが、これ以上不審者の度合いを上げるわけにはいかないと判断し、文句を飲み込んだ。
「えっと、俺が壊してしまった祠はどういう曰くのあるもので? すみません、今すぐに弁償は出来ないのですが、ちゃんと稼げるようになったら何とか……」
「……金など要らん。中身は無事だったからな」
バーグはテーブルの上に虹色に輝く水晶のような石を置いた。
「それは一体何でしょうか?」
「三千年前、竜と鮫から始まり、人種を巻き込んだ『世界頂上戦争』の終戦後、五大英雄の一人……まぁ、いや、その辺りは詳しく語る必要もないか。有名な話だからな。お前さんも知っていると思うが、アンソニーがナギサと共に異世界に行ってしまった。しかし、いつか英雄自身を、もしくはその子孫の力を借りる時が来るかもしれないと、この地に目印を残した。それが祠……いや、水晶だ。世界すら越える転移魔法の座標。先祖のスピルは狩りで生計を立てていたのだが、アンソニーやナギサと親交があったという文献を残している。そして、彼らの血が戻って来る日を確信していたようだ。現に最近では不穏な噂もあるからな」
バーグは忌々しそうに鼻息を立てた。
「マザー・シャークの復活ですか?」
「あぁ、この村の周辺でも魔物達が活発になっている。しかも街にいる息子夫婦の話じゃあ、鮫に寄生されたような変貌を遂げた魔物も確認されているようだ。行商人や冒険者に犠牲者が出たらしい。街の塀の中なら安全だろうが、ここ村人の中にもおかしな魔物を目撃したというやつもおってな。どうなることやら」
バーグが水晶を見つめる瞳には、先祖が手を取り合った英雄への祈りが込められているようだった。
「そうですか……それは解決しないといけませんね。頑張りますけど」
「はは、坊主が解決と来たか。そう簡単にはいかんだろうが、悲観し過ぎるよりはずっと良い。しかし、死に急ぐもんじゃない」
バーグはナギヒコに穏やかな視線を向けた。
ここでナギヒコは迷った。その理由は当然ながら家名を名乗るべきかどうかだ。
碌に戦ったことすらない、一匹のクモの命すら躊躇う自分が期待させるべきではない。
そして、その期待を裏切った時、この老人を絶望させてしまうだろう。
「ご馳走様でした。それではいつかまた」
「おう、気を付けてな」
ナギヒコは別れを告げると、バーグの家を出た。
幼い子供達が無邪気に駆け回り、ナギヒコと同性代か少し年下といった少年達と大人達は農作業をしている。周囲に柵はあるが、恐らく大型の魔物が相手ならば意味を為さないだろうことは伺えた。
「何も言わないんだな」
村から出たところで、ナギヒコは呟くように言った。もちろん、それはブルースに向けた言葉だ。
「異世界で生きる覚悟は出来ても、戦う覚悟は出来ていないでしょ」
ブルースは片方のヒレでナギヒコの頬を励ますように叩きながらそう言った。
「……痛いところを突くなよ」
「あはは、仕方がないよ。君は平和な国の十六歳だもの。生きるために戦う国の十六歳とは違う。それが現実さ」
「それはそうだな。じゃあ、やってみるか」
「何を?」
ブルースの問いにナギヒコは親指を立てながらこう答えた。
「覚悟を決めるための挑戦」




