祭野桜の原体験
祭野桜は、手毬がすぐにでも動くだろうということを確信していた。
これまでの捕虜生活で手毬が要領の良い女の子だということはわかっていたし、山猫が手毬の監視をしていたことも動きが近い証拠だと思ったのだ。
祭野桜は人の不仲が許せない少女だった。一方で、祭野桜の人生にはいつも人々の不仲が溢れていた。
原体験で言えば両親がそうだ。
父はいつも不機嫌で家の酒が切れていることがわかると母を殴った。桜はこのとき、母を守るために体を鍛え始めたのだが、それはまた別の話だ。
父がおらず、母と桜が二人のときは、母がいつも父の悪口を言った。いかに自分が可哀想で、父が極悪人かということを桜にねっとりと語るのが常だった。そういうとき桜は母を否定こそしなかったものの、それを聞いているのが嫌だったから適当な大きな声を出すことにした。たとえば「地震だ、強い揺れがくるよ!」と言ってみたり、「空襲かも、逃げよう!」と言ってみたり。
その嘘は一時的に母の言葉を止めはしたが、しかしまた別のタイミングで同じ調子で悪口は始まってしまうのだった。
桜は父も母も好きだった。
父は桜とふたりのときは別に大声は出さなかったし、何より働いて家族を養ってくれているのを感謝している。悪口ばかりの母だって、私の他に四人の兄弟を育てながら家事に全霊を尽くしている。そもそも昔はそんなに悪口もなかった。本来は優しい人であることを知っていた。
人っていうのは別に、元来悪い人なんてそうそういない。何か苦しかったり、耐え難い何かがあったりして徐々に許容できる範囲が減っていくだけだ。美味しいものをたくさん食べて温泉に浸かって、たくさん眠って将来の不安が消えれば不機嫌でいる方が難しいのだ。
だから桜は苦しかった。
父と母が喧嘩ばかりなのは、二人とも追い詰められているからだ。その心の切迫は常に桜に伝播し、なんとか二人とも幸せになって欲しいといつも願っていた。
両親ばかりではない。兄弟喧嘩が起これば仲直りするよう願ったし、学校でクラスメイトのいざこざがあればどうすれば収まるか考えた。
桜の人生は、常に仲裁する人生だ。
それはこのバクルシュミュール女子収容所に舞台を移したところで変わることはない。
「いまってムオンのピンチじゃん? 混乱を起こすのはいまかと思うんだよね」
そんなふうに手毬が話しかけてきたとき、桜は嫌な予感がしたのだ。それは手毬が医療部隊に配属されて程なくしたときの話だった。
「だからさ、もし毒物をもっていたら、少し分けてくれないかな」
「な、何に使うの?」
「わかるでしょ? うまく監察官を何人かやれれば、もしかするとこの施設も手薄になって脱走できるかも」
ある日、ムオンの監察官は言った。医療部隊は現在体力を温存する任務をさせられており、万全を期してムオンの戦地に投入されるのだと。嘘だと思う。だってニッポニアの捕虜が戦地に投入されたところで、相手に向かっていく理由は一つもないのだから。
それでも、手毬たちがその噂に怯えているのはなんとなくわかったし、だからこそ早めにそれを打ち破る必要があった。
桜は言った。
「そっか、チャンスなんだね」
「うん、そうなの」
「残念。戦闘部隊出身の私は自害用の毒は持っていないんだ」
「そ、そうなんだ」
「でもさ、もし役に立てることがあるのであれば、なんでも言ってね」
桜が笑いかけると、手毬も嬉しそうに笑い返した。でも桜には、その心の奥の焦りが手に取るようにわかった。




