第6話 ウォーミングアップ
流司は身支度を素速く整えると家を出た。
稽古が行われる場所は目と鼻の先にあった。
と言うのも、この地域は古くから、芸能の興業を行う場所として知られ、有名無名に限らず、大小様々な施設が、積み木細工のように犇めき合っている特殊な土地柄であった。
そのため、お金のない、流司のような役者や芸人に、格安で住まいを提供する、粋な大家さんがそこかしこに存在し、一つのコミュニティとして成立していた。
「流ちゃん、今日は早いねぇ」
と言って、老齢の品のいいご婦人が声を掛けた。
「敦子ばあちゃん」
大家である大槻敦子は、九十を超える年齢を思わせない、シャンとした佇まいで、玄関の前に置かれた花壇に、水を上げながら微笑む。
かつて、銀幕を彩った女優として名を馳せた女性は、往年の面影を失うことなく、矍鑠で、艶のある声で流司の姿を見ると、
「もしかして、今日はお勤めかい?」
「うん、代役だけどね」
「まぁまぁ」
敦子は顔をクシャッと綻ばせると、
「代役でも立派なモンだよ、しっかりおやりな。そうすりゃ、顔を覚えて貰えるからね」
「もちろんだよ。ありがとう、ばあちゃん」
「あんたには役者としての才能は十分あるんだ、胸張って気張りな!」
と言って、流司の背中をパンと力強く叩くと、
「行って来ます!」
敦子に一礼して、流司は稽古場へと向かって行く。
歩いて十五分もすると、目的の場所に辿り着いた。
鉄筋ビルの半地下にある、『アトリエ・涼風』と書かれた扉を開けると、稽古前と言うこともあり、まだ役者もスタッフもいなかった。
「一番乗りかな?」
そう思っていると、
「おっ、流司じゃねぇか」
「武史君」
奥から出てきた菊池武史が、流司の顔を見て手を挙げる。
「流司が来るってことは、アイツの代役ってことかい?」
「うん」
「倉田さんも相変わらず、大変な事は全部お前に投げるよな、ったく」
呆れ顔の武史を見て、
「でも、仕事を貰えるだけ嬉しいよ」
「相変わらず、閑古鳥ってか?」
「ははっ、まぁ、ね」
苦笑いしながら、流司が肩を落とすと、
「背筋が曲がってたら、来る仕事も来ないぜ!役者は何時も、誰かに見られてることを意識しろっ、てね」
「千葉先生の言葉だね」
「あのテンションは、誰も真似出来ねぇけどな」
「確かに」
二人が以前、通っていた演劇の専門学校で、特任講師だった千葉シーゲルは、昭和を代表する、数々のアニメの声優やナレーション、はたまた音響監督など、およそ、凡人には出来ない、数々の仕事を難なく熟す才人であり、また、演技に於いては、監督の注文以上のテンションで演じ、血管が切れることなど日常茶飯事であった。
特に妙技と呼ばれたのは、台詞と台詞の行間を利用したアドリブであろう。
余りに自然だが、その一言で、周りの役者達が抱腹絶倒となり、収録中、笑いを堪えるのに必死になったというエピソードは、枚挙に暇がなかった。
二人は恩師の顔を思い出しながら、
「武史君は役を貰ったの?」
「うんにゃ、アンサンブルとしての参加だな」
「大変だね」
「着替えが多くてな。バックヤードでスタッフ総出で衣装を替えなくちゃいけねぇ」
「メインの人より、一人で演じる役柄が多いからね」
「まぁ、今日は通し稽古だから、そう言ったのはねぇけど」
「本番は大変そうだね」
「まぁ、慣れれば面白いもんさ」
二人は談笑し、更衣室に入ってジャージに着替えると、フロアで入念に柔軟体操をする。
中途半端に、若い時にブレイクした人気役者の一部には、基礎である、柔軟体操など必要ない、若しくは、面倒くさいと言って、ロクに行わない輩もいるが、そう言った人間は、大抵、本番の舞台で足を挫いたり、無理に身体を捻って負傷し、関係者に多大な迷惑を掛けることが常であった。
「おはようございます!」
ドアを開けて、一人の青年、いや、子供のような可愛らしい少年が入って来た。
「おはようございます!」
「おはようございます!」
二人は大きな声で挨拶を返す。
別に、朝の挨拶と言うことで言っている訳ではない。
この業界では、朝でも昼でも深夜でも、挨拶には、この言葉を使うのが常識であり、近年では、一般の会社などでも、この挨拶を用いている所もあるらしい。
「すごく可愛い子だね」
小声で流司が武史に囁くと、
「メインキャストの一人、大平翼だよ」
「小さくて女の子だと思ったよ」
「ああ見えて、ちゃんと成人してるぜ」
「……嘘でしょ」
背が小さいながら、パーツの一つ一つが整っており、これは、女性が黙っていないと思うほど、不思議な庇護欲を掻き立てる魅力を持つ翼を見て、思わず感嘆の声を上げた。
「あの、まだ、監督さん達は来られてないんですか?」
二人に尋ねる翼は、キョロキョロと周りを見渡していた。
「少し遅れるって。さっき、俺のラインに連絡あったよ、準備しとけってさ」
「そうなんですね。僕も柔軟と発声の練習をしなくちゃ」
と言って、更衣室に入って行く。
「ああ見えて、演技に対して、メインの誰よりもストイックなんだぜ」
武史は翼のことを褒めると、
「いい目をしてたね」
と、流司は触発されるように、ウォーミングアップに自然と力が入っていく。




