第54話 あのさ。
今日も日差しが眩しいが、一ヶ月前の夏の盛りの時に比べればましな気がする。
僕はそんなことを思いつつ、やっぱり一ヶ月前と同じように水を張ったタライに足を突っ込んで、扇風機の風に当たって伸びていた。
風量設定は強。隣に僕と同じようにタライに足を突っ込むアーロン君が椅子に座って伸びているのも、一ヶ月前と変わらない。
看板猫のハクがすやすやと眠るのは、一ヶ月前は店頭の簡易テーブルで飴型ポーションを収めていた温度調節の魔導ケースだ。
魔石狩りが終わって、ケースの上は猫がいつも寝るスペース以外、猫毛と埃がうっすらと積もっている。
手入れをしなきゃなと思ってもなかなかできなくて、動力である魔石も抜かずに店の隅に置いてあった。
中は空っぽだけど、魔石の魔力が切れるまで飴型ポーションを冷やす温度を保ったままひんやりしている。おかげで涼しくて快適らしく、ハクのお気に入りの寝床になっていた。
明るい店先に比べて、店内は少し暗い。
眩しく輝く通りには、魔石狩りの時のような熱気も人通りもなくなって、いつもと変わらない闇なべ通りだ。串焼きの匂いもなくなって、ただただ乾いていて埃っぽい。
魔石狩りが終了し、テラは冒険者が命を懸けて挑むダンジョンへと戻った。
調査のために潜ったベテランたちによると、中はだいぶマップが変わったらしい。通路や部屋が変化して、出現する魔物の種類も階層によって増えたり減ったりしているそう。
冒険者ギルドの内部を自由に動けるミナトから教えられた。
自分が幽霊であることを隠さなくなったミナトは、どこでそんなこと聞いたの? と驚くような情報をたまに僕に漏らしてくる。
ギルド内の秘密や機密を丸裸にしようとしてるわけじゃないよね?
不安なんだけど。
相変わらずこの街は冒険者ギルドの威光が強いんだから、知ったら即斬られそうな情報はいらないよ。一般人の僕には荷が重い。
そんなミナトが教えてくれたことの中には、マップの変化でミナトとミリムちゃんが死んだ小部屋もなくなったということだ。
そして死体発見の情報がなかったということ。
迷宮の改変とともに、置き去りにされたヤマガタ・ディディエの死体は消滅した。
二つの闇ギルドに目をつけられ、闇なべ通り商店街を敵に回し、投資家の女王を煩わせた男は、誰にも知られず姿を消した。
彼が消えた直後には少しだけ冒険者ギルドの酒場組がざわめいたらしいけれど、誰もヤマガタ・ディディエのことを惜しんでいないせいか、今となっては名前すら聞かない。
ジュリアンちゃんのためにヤマガタ・ディディエのことを調べると言っていたロドニーのおっさんだけが、ぷつりと消息を絶った男の末路を察して深いため息をついていた。
「食わねえのか」
扇風機の風で少し歪んだアーロン君の低い声に、僕は視線を膝に落とした。
僕の膝の上には茶色い紙袋。蒸気を逃すために口の開いた紙袋の中身は、まだ少し温かい。ミリムちゃんのごほうびイッチだ。
昼を少し過ぎて何も食べていない僕は確かに空腹だったけれど、これを持ってきたクレアさんの様子を思い出したら、なんだかすぐに手が出なかった。
あの日、あの時――……ヤマガタ・ディディエの魂がスライスされてジュリアンちゃんと黒い霧の中に消えたあと、ミリムちゃんを抱いて小部屋を出た僕はアーロン君と合流してテラを出た。
何があったのかはアーロン君には言わなかった。言えなかったのかもしれない。
植物が茂った小部屋で過ごした数十分が、これまで忘れていた僕の五年間が詰まったものだったし、これからの人生を変えるものだったのだと理解していた。
だけど消化できていなくて、だから何も言えなかった。
ただミリムちゃんを見つけたことと、ヤマガタ・ディディエが死んだことだけアーロン君に告げて、僕は店に戻ったのだ。
クレアさんにミリムちゃんを返したのは、この場所だった。この店の、従業員スペース。
クレアさんには僕の称号スキルのことを話した。じゃなければミリムちゃんの言葉を正確に伝えられないと思ったから。
魔石と一緒にミリムちゃんの願いを伝えると、クレアさんは泣きながら娘の亡骸を抱きしめたあと、無言で頭を下げた。
そして悲しみに険しく引きつった唇を歪めて、しばらくしてから覚悟を決めた顔で魔石を睨んでから息を吸い、クレアさんは「喜びます」と言った。
それが娘の願いなら、私は喜びます。喜んで、笑います。
喜んで、笑って、この魔石で〝この国の人になるけんり〟を買います。
クレアさんがそう言った時、横にいたミリムちゃんは笑顔だった。
ママとおそろいのピンクとオペラピンクとショッキングピンクの渦巻きがくっついた飴型ポーションを買ったいつかのように、頬がぷっくりと持ち上がって、細くなった水色の目がキラキラと輝いていた。
それがママの一番の幸せだと信じて疑わない子供の笑顔が、僕には残酷なほど美しく映った。
それ以来、ミリムちゃんを見ていない。
〝この国の人になるけんり〟を得るための手続きにロドニーのおっさんをクレアさんに紹介して、一ヶ月。無事申請できたと、クレアさんがごほうびイッチを持ってお礼を言いにきた今日も、彼女の隣にミリムちゃんの姿はなかった。
「ぜひ一緒に食べてくださいって言われたけど……」
クレアさんはまだミリムちゃんがこの世にいて、僕と話せると思っているのかもしれない。それが希望になっているのかな。
もしかしたらそう思わないと、死んだ娘が夢見た日々を、独りで生きていけないのかもしれない。
僕もそうだから、ちょっとわかる。
五年前のあの日にミナトの死を覚えていたら、こんなふうにのんべんだらりと魔導具屋の店番なんてやっていられなかったかも。
暑い日に暑いって、きっと思えなかった。
あれは間違いなく僕の心の傷だった。ミナトが生きているふりをしてくれたから、大怪我にならなかった傷だった。
うん。だからやっぱりミナトが『ごめん』なんて謝る必要は全然ない。
「どれ」
クレアさんの「一緒に食べて」を勘違いしたアーロン君が、僕の膝の上の紙袋を覗き込む。
「うまそうなサンドイッチじゃねえか」
勝手に袋へ手を突っ込んで、二つの三角形のうちひとつを奪っていく図々しい幼馴染みを見て、そういえば……と、僕は思った。
そういえばアーロン君には、僕はどう見えていたんだろう。
死んだはずのミナトと話したと言う僕のことを、どんなふうに思っていたのだろう。
五年前あの時、アーロン君は指輪型の収納の魔導具探しを、遅れて手伝いにきてくれる予定だった。
そこでアーロン君が見たのは、血溜まりに沈んだミナトと血まみれになった僕。
アーロン君はそんな僕とミナトを抱えて、テラから脱出してくれた。
アーロン君はミリムちゃんを探しに行った日に、自分もトラウマがあるのだと言っていた。そりゃそうだ。
死んだ幼馴染みと死にかけてる幼馴染みを見つけて、抱えて、どうして普通でいられるというのか。
しかもその瀕死の僕は、傷が癒えてもミナトの死を受け入れられずに、ミナトのことを生きているみたいに話すんだ。
「あのさ。ミナト、死んでたよ」
ミリムちゃんのごほうびイッチにかぶりついたアーロン君は、僕の言葉にもぐもぐと口を動かしながらこっちを見た。
「でも僕には称号があったらしくて。称号スキルのせいで、僕にはミナトのことがずっと見えてたみたい」
「……そうか」
口の中のサンドイッチを飲み込んで、唇の端についたパンくずを親指で拭いながら、アーロン君がうなずいた。
「なんていう称号だ」




