第52話 女神の囁き
倒れたミリムちゃんへ視線を送ると、心なしかミリムちゃんの頬が緩んで見えた。
一歩、二歩……僕がミリムちゃんに近付くと、ヤマガタ・ディディエが尻もちをついたまま剣を振り回して、「寄るな!」と叫んだ。
「それに触るな! 俺の魔石だ!」
「は? これはミリムちゃんの魔石だよ」
この場にいるのがただの魔導具屋店番の僕だけだとわかって、ヤマガタ・ディディエが勢いを取り戻した。
「違う! これは俺が使うための魔石だ!」
剣を装備して鎧を纏った冒険者は剣を構えて立ち上がり、唇の下のホクロを歪ませて怒鳴ってくる。
「お前もオークのガキの魔石探知能力に気づいてたんだろう⁈ 使ってやろうと思ってこいつに優しくしてたんだろうが、残念だったな! これは俺が使う! 早い者勝ちだ、そこで見てろ!」
ブンッとヤマガタ・ディディエが大きく剣を振った。空中を斜め切りして威嚇する。
「獣人ふぜいが人間様にたてついて、死んでも手を煩わせるなんてふざけてる!まったく、オークの血なんかついたら汚くて……防具も変えなきゃいけないな。幸いこいつは鞄にそれなりの魔石を蓄えていたし、それでまあ賄えるはずだ……」
ぶつぶつ言いながらミリムちゃんににじり寄るヤマガタ・ディディエの狙いは、ミリムちゃんの腕だ。
死後硬直で魔石が取れなかったから、手を斬り落して魔石を取り上げようというのだろう。
「始末した時は撤収の合図があってできなかったが、今なら……」
ぼそぼそとしゃべり続けるヤマガタ・ディディエの視線は定まらず、振り上げた剣の切っ先もふらふらと揺れている。
僕はとっさに剣とミリムちゃんの間に割って入ろうとして、そういえば僕はこの卑怯でダサい男を排除する手段を持っていることを思い出した。
ミナトを失った最悪の記憶の中で、女神の囁きを聞いたのだ。
――称号スキルを使用します。
「ミナト」
『任せて』
冒険者になりたての若輩者が死者の王であるリッチキングを倒した栄誉。
テラが認めた称号スキルは死者との会話ができることと、死者が生前身に着けていた能力の行使を許可すること。
女神の囁きが示した通り、死者の願いを叶えるためになら、僕は死者の力を使えるらしい。
『ご依頼は?』
「ミリムちゃんの魔石をヤマガタ・ディディエから守って、クレアさんに渡したい」
『この場に最適な冒険者を紹介するわ』
生前冒険者ギルドの受付嬢だったミナトは、依頼にぴったりな冒険者を紹介することも仕事だった。だからミナトは僕という依頼人の期待に応えて、冒険者を呼んだ。
けれど死者であるミナトが呼ぶ冒険者は死者である。
指輪型の収納の魔導具からレザーバインダーとガラスペンを取り出したミナトが、バインダーに挟んだ紙に素早くサインをした瞬間、ミナトの横の地面から真っ黒な霧が噴き上がった。
水の中に落とした黒いインクのように、重くて暗い霧がゆっくりと辺りに漂う。
ミナトの姿は見えないらしいヤマガタ・ディディエも、その霧は視認できたらしい。
突如として現れた異様な光景にぎょっと目を見張り、剣を振り上げた腕を下ろして胸の前で構えた。ミリムちゃんの腕を斬るためではなく、黒い霧から自分の身を守るために剣を使うことにしたようだ。
『……て、たすけて……たすけて……』
地面から湧き出る黒い霧が人の大きさに盛り上がり、中から微かに声がする。
『たすけて、ねえ、いや、いや……ねえ、たすけてよ……たすけてってば……』
人の形になった霧の中からヤマガタ・ディディエに向かって白い手が伸びて、牛や馬の赤ん坊が生まれ落ちるときのように、霧の中からうっすらと霧の膜に包まれた顔がずるりと現れた。
重くて湿気を過分に含んだ霧が顔からぬるりと剥がれ落ち、徐々に下に溜まって散っていくにつれ、それが誰だかわかった。
「ジュ、ジュリアン……」
剣を握りしめ、ヤマガタ・ディディエが後ずさる。
鈍い銀髪から灰色のネズミ耳が生えた白い顔。血の気の失せた白い裸体。
薄い水色の目を向けて『たすけて』と呟き続けながら、ヤマガタ・ディディエに手を突き出している女性。
『……なんで……アタシが……こんなめ、に……なんで……なんで……なんで……なんで……』
ヤマガタ・ディディエの視線はすっかりミリムちゃんから外れて、色彩の変わったジュリアンちゃんに釘付けになっている。
ミナトに呼ばれ、この色彩で現れたということは、ジュリアンちゃんはラン・ティエンに喰われて死んだのだろう。
ヤマガタ・ディディエにはさっきの銀髪のミリムちゃんや、今僕の隣に立つミナトのことは見えないようだった。
だけど自分が騙し、〝マンイーター〟の餌食になった女の姿は見えるらしい。
頭が取れかけた人形のようになんでなんでと首を傾げ、たすけてたすけてと呟き続けるジュリアンちゃん。
冒険者だったっけ? とその姿を見て僕も一瞬首を傾げたが、そういえばネズミっ娘ちゅうちゅう♪ 倶・楽・部で、ゼノビア・ジェーンが〝深紅の恩讐〟のスキルを使ってジュリアンちゃんのギルドカードの有無を確認していたことを思い出した。カードを所有していれば冒険者扱いなのか。
「そんな、馬鹿な……ジュリアン……」
剣を両手で握りしめて、ついに震えだしたヤマガタ・ディディエが呆然と声を震わせた。
『ああああああああ』
ジュリアンちゃんは自分が腕を突き出した方向に、ヤマガタ・ディディエを見つけて憤怒の表情を浮かべた。
『たべやす、く、しましょ……ね。い、た、だ、き、ま……あ、あ、やっ……やめて……まって……あははははは……うらむなら……ごちそうさま……うらむ……なら……ごぢぞうざまああああ……うらむならああ……ぼくぢゃ、な、く……でえええ……』
話すジュリアンちゃんの下唇が下にずれた。
ピーラーでスライスした人参みたいに、唇がどんどん薄く切り離され、等間隔に宙に浮く。
『じじじ、じぶん、じぶんを……うらもうね……って……ごちそうさま……おいし、かった……よ。うらもうね……ひとを……だまじだ……アダジ……を……。でも、でも……でもでもでもでもでもおおおおお!』
鼻も頬もスライスされて、話すたびに動く舌も薄い切れ端になっていく。
喋りづらそうだし呂律も回らず不明瞭ではあるものの、何を言っているのかはなぜかわかる。
ジュリアンちゃんがまだ生きている時に、ラン・ティエンから言われた言葉だろう。
いただきますとごちそうさまは〝マンイーター〟が言ったのか、言わせたのかな。
『なんで?』
「ひっ……」
マンイーターに食われたはずのジュリアンちゃんがここにいるという不思議と、さらにそのジュリアンちゃんが口を開くたびに、その体が薄くスライスされていく不気味な現象に、ヤマガタ・ディディエが尻もちをついた。
『なんでなんで……どうじで……アタジ、アダジを……だまぢだあああ……おなじ、だまじたのにいいいいい……なんでえ……おまえぁあまだ……いきてる……なんでなんでなんでえええ? ア、ダジ……だまざれだ……おまえ……おまえのぜい……だ、あああああ』
尻で草を掻き分けて後ずさるヤマガタ・ディディエに向かって、ジュリアンちゃんが手を伸ばす。
彼女が右足を一歩出すと、親指の爪先のスライスが想像以上の歩幅でヤマガタ・ディディエの元へ詰め寄った。
パサ……と草の上を踏みしめたのは右足の親指の爪先だけ。
僕とヤマガタ・ディディエの視線がそれに集中した次の瞬間、ジュリアンちゃんの体の全てがスライスされ、右足の親指の元へと集まっていく。
トランプのリフルシャッフルか、開いた本が一ページずつすごい勢いで戻っていくみたい。
そしてジュリアンちゃんの体は、ヤマガタ・ディディエのすぐ隣で元の形に戻った。
よく見れば全身にうっすらと縦に切れた跡が残ったジュリアンちゃんが、尻もちをついて震えるヤマガタ・ディディエの横にしゃがんだ。
うつむくヤマガタ・ディディエの顔を真横から覗き込み、ゆっくりと口を開く。
『おまえだけ、いきてるの、ずるい』
ボタ……と、ジュリアンちゃんの唇が草の上に落ちた。
「まっ待ってくれ! 違うんだ、俺は……!」
『いいいただきまず、し、ましょ、ね……』
ジュリアンちゃんの手が、ヤマガタ・ディディエの胸を押した。
「っは……?」
胸を押さえるヤマガタ・ディディエの背中から真っ黒な霧が噴き出して、糸が切れた傀儡のように彼の体が地面に倒れる。同時にその背中から、間抜けな顔をしたヤマガタ・ディディエがぬるりと立ち上がった。
ハトの首筋みたいな青色だった髪は銀色で、状況が把握できずに丸くなった目は薄い水色だ。
『おまえだけ、ぶじ、とか……ずるい……から、ねええええええ?』
鼻先の一片を草の上に落としたジュリアンちゃんが、恐怖で引きつった顔をしたヤマガタ・ディディエに笑みを向ける。
ヤマガタ・ディディエが首を横に振ろうとした瞬間、彼の顔をはじめ体中に縦線が走った。
『い、いやだ……! 魔剣、魔剣で、俺はテラから称号を! そしたらナビ』
銀色の髪をしたヤマガタ・ディディエの体は、綴じ糸を失った本のようにバラバラになって地面に落ちていく。
『ごぢぞうざま、じまぢょう、ね……?』
ヤマガタ・ディディエのスライスを拾い集めながら、幸せそうにジュリアンちゃんが言う。
草の上に倒れた青い髪のヤマガタ・ディディエの体には見向きもしないで、バラバラのヤマガタ・ディディエだけを拾うジュリアンちゃんの体を、黒い霧が包み込んだ。
現れた時と同じように、重い霧に包まれた中からジュリアンちゃんの呟きが聞こえてくる。
『ごちそうさま……おいし、かった……よ、ごぢぞうざまごぢぞうざま……』
霧の中からは、ヤマガタ・ディディエの声は聞こえてこなかった。




