36:天使の攻撃を防げ!
「ぶ、無事……なのか? 生きてる」
目を覚ますと、一寸先も見えないほど白くて深い霧の中で、俺は仰向けになっていた。最後に覚えているのは俺に直撃する水のビームが爆発するその瞬間だった。
「あの後一体……」
目を凝らして薄っすら見えたのは、黄色く光る、薄い膜のようなバリアだった。
「アン! 無事で良かった」
「ぉう」
後ろから声がして、振り返ると手を掲げるセイがいた。
「なんで俺、傷一つないんだ」
「ふふっ、私が守ってあげているのよ。アンが風邪引かないように雨も弾いてあげてるんだから」
彼女が余裕そうに笑うけれど、ミシィと薄いバリアに亀裂が入る。今にも崩れそうで彼女も限界なのだと思わせる。
「ありがとうな、セイ。でも、あんまり無理すんなよ」
「お気遣いありがとうね」
膝に手をついて腰を上げる。セイが守ってくれたおかげで特段と痛いところも無かった。
「そろそろ……限界かも」
亀裂が段々と増えるバリアの中、身構える。
あの天使、今の俺よりもずっと強い。水の紐、水のビーム、全部俺の身動きを制限してから一撃を入れている。動けないようにされる前に何とかすれば、勝てる……のかもしれない。
一瞬、空に浮かんでいた濁流の鯨が脳裏をよぎる。俺が見たことのある動物で最も大きいあいつに突撃でもされたらと思うと、背筋に寒気が走る。
「もう……保たないよ、アン」
いつでも動けるように構えながら、目を閉じて、呼吸を整えて、言葉を反芻する。
〈想像しながら戦え。ある程度は応えてくれる〉
崖をひとっ飛びした時のような万能感はもう無いけど、ヒローナのように稲妻を思わせる速さで走れるかもしれない。
目を開けると同時に、パリンと陶器が割れたような音がした。鋭利なバリアの欠片が宙を舞う中、俺は地面を蹴った。
「あら、流石に生きてるのね。死んでいてくれたら楽だったのに。セイちゃんのせいかしらね」
「なぁ、教えてくれよ。なんでそんなに俺やセイを、みんなを殺そうとするのか」
天使が、にやりと片方の口角を上げて笑う。
「殺そうだなんてそんな……ねぇ?」
妖艶な、怪しい笑みを崩さぬまま、続ける。
「まぁ、もったいぶらなくても良いわよね。あなたたち、たくさん祈ってくれているわよね? 特に、あなたの背後にいる聖女ちゃん」
「うわっと」
話している途中でも容赦なく雨粒の弾やビームを放ってくる。間一髪避けきれてはいるけれど、なおも笑っている天使にとっては俺の相手なんて余裕なのだろう。
「私の主ちゃんね〜、良い子なのよね。叶えられる願いなら、叶えちゃう。昔は特にね」
叶えられる願いなら叶えちゃう……?
その言葉を聞いた俺の脳内に数多の記憶が蘇る。病気の息子が良くなるように母親が祈る記憶。薄暗くて狭い路上で生き倒れる人の食べ物を食べたいという切実に願う記憶。倒壊する建物の中、助かりたいと願う青年の記憶。
「バカ言うなよ! なんにも……なにも叶えてくれないじゃないか!」
「チッ」
妖艶な笑みが一瞬で消えた。
空にあった水でできた塊が、一斉に無くなった。天使が何かを口ずさむ。
「アン! 高く跳んで!」
「わ、わかった」
なにか、大技が来るのかと身構えていたけれど、何も分からないままセイの言うとおりに上空に浮かぶ天使と同じ高さまで跳ぶ。
地面には、水の紐が捕まえる対象を見失ったのか、ただただ漂うだけだった。
「あっぶねぇ。あいつ……大技出す雰囲気だったのに、紐なのかよ」
―——グォオオオオオオオオオオオオ!!!
安心したのも束の間、今まで悠々と浮かぶだけだった鯨が、体を芯から震わせるほどの咆哮をあげた。
「人ってそうよね、当たり前のことは叶っても何とも思わない。人生を左右するような大きな祈りを叶えたら、最初は感謝するけれど」
鯨が大口を開けていると、その口内に不思議な文様が現れる。その文様は、地震が起きたとき、セイが教皇の演説を聞くために描いた結界の文様を連想させた。
「願いを叶えてあげられなかったら、やっぱり居ないと言うか、恨み言をツラツラと並べる」
雨がやんだ。やんだというより、鯨の口のなかに吸い込まれていく。地面に落ちた雨水も、川の水も、吸い込まれて、文様の前で塊になっていく。
着地して見上げると、視界のほとんどを鯨が支配していた。飛んでいた時に感じた重々しい印象が、さらに重く感じられた。
あの塊が、一気に放出されたら大変なことになる! 俺の後ろには避難所のある小さな村。守る方法を想像しろ! 俺!
「きっと大丈夫。私もいるよ」
「教えてあげましょう。あなた達、人を殺そうとする理由。愚かなあなた達を減らすのと、貯まった祈りの力を使って主ちゃんをこの世界に召喚するのよ。より快適な環境になるわね」
『愚かな人が居なくなりますように』
そう天使が言葉を告げると、小さな祈りの白い光が、黒く濁った。鯨から村すべてを抉り、洗い流さんばかりの濁流が放たれた。
「セイ!」
「うん!」
イメージするのは、起きたときに見た薄いバリアよりも厚くて大きなもの。村を包めるほど大きなバリア。
『みんなを守れますように!』
手を前に伸ばしてセイと一緒に祈ると、俺の体から神々しい光が湧き上がる。それらは伸ばした手の前で丸い塊になったかと思えば、一瞬で村を覆うほど大きなバリアになる。
濁流とバリアが衝突する。
「おっっっっっっっっっも!!!」
鯨から放たれた濁流の衝撃は想像以上に重かった。踏ん張っても、踏ん張っても、足元の土をえぐられながら徐々に押されていく。恐ろしかった。巨大なバリアをもってしても押されてゆくことが。でもまだ、バリアが壊れる気配はない。壊れない限り、諦める理由はない。
「クッ」
セイも両手を突き出してくれているが、依然として押されている。川に流された人が何をしても抗えないような理不尽を感じる。
「アンコーーーーー!」
避難所から勇気の湧き出る声が聞こえてきた。
「……やっと、来たか」
振り返ると、白い軍服に、赤いマントをたなびかせ、髪を後ろで一つにまとめた、俺にとっての英雄が空中を華麗に飛んでいた。




