35:天使と戦うアンコ
目の前の少女から、白い光の粒子がほつほつと浮き出てくる。光は少女の手を伝って俺に溶け込んでゆく。その光は温かくて、俺の心に満ち満ちる。
「ねぇ…アン」
祈ったときに出る光に触れても、いつものような祈りの言葉や情景は一切浮かんでこなかった。
「信じてる……よ………」
「あぁ…………あぁ………任された!」
光が俺を包んだとき、少女は俺の腕の中で安らかに眠った。
包み込む光が弾けたとき、俺は地面に足をつけていた。上を向くと、空に届きそうなほどに高い険しい崖が見下ろすようにそびえ立っている。
「飛んで、アン」
左耳に聞きなれた声が囁かれた。
「セイ!?」
そばには淡く光るセイの姿があった。腕の中には眠っているセイがいる。
「なんでだ……? どういうことだ?」
「ほら、今はいいからいいから! ほら、飛んで」
「お……おう!」
なんでセイが二人いるのか、何を考えてそんなことを言っているのか全然分からなかったけれど、今の俺は不思議と何でもできるような万能感があった。今の俺なら天高くそびえる崖さえも跳び越せそうな自信がある。
セイをお姫様抱っこしながら、腰を深く落とす。狙いを定めて、飛び上がる。
「……!」
眼下の景色は驚くほど小さくなっていた。崖上にいる俺たちを余裕で呑み込めてしまいそうな大蛇がミミズ程の大きさに見えたし、天使やヒローナはもはや豆粒ほどの大きさだった。
川から溢れる濁流は全てあの大蛇に吸い寄せられていて、避難所のある小さな村に被害は全くない。
「良かった…!」
「アン。ヒローナを助けてあげて!」
「任された!!!」
崖上の地に足をつくと、その場がひび割れるとともに石が宙を舞う。
「あらあら……良い顔するじゃない」
「けっ! お前に褒められたって嬉しくねぇよ!」
「つれないわね」
天使の戯言に付き合わずに、真っ先にヒローナのもとに駆け出す。
『立ち止まりましょう』
地面から意志を持ったように水の紐が伸びてくる。セイに駆け寄った時は全く反応さえできなかった紐が、今はハッキリ見える。
「アン、前!」
前から伸びる二本の紐をひらりと躱す。足をついた地面からも紐が伸びるが、跳んで逃げる。
「やるじゃない」
俺が宙を舞っていると、また地面から紐が三本伸びてくる。
(まずい……!)
なんとか空中で身を捩って二本は躱せた。けれどいつの間にか、最後の一本が足に巻き付いている。紐が天使の方に引き寄せようとする衝撃で、抱いていたセイを落としそうになる。
「あっ、いや! ………っぶねぇ……」
なんとか持ち方を変えて耐えたものの、両腕がふさがっている状況で足に巻き付いた紐を何とかするのは難しい。
『お腹を満たしましょう』
「アンコーーー!」
宙に浮いた天使の下を、濁流の大蛇が口を開けながら通ってくる。大蛇の口の中は土と木片を巻き込みながら渦を巻いていて、呑み込まれたら、ひとたまりもなさそうだった。
「もう、邪魔しないでくれる?」
雨が、横殴りになった。今度は助けにくるヒローナに襲いかかって、彼女の足取りが止まる。
「アンコを、離せ!」
襲いかかる雨の中、彼女はナイフほどの刃渡りしかない剣を投げる。思い切り投げられた剣は綺麗な直線を描いた。
「おっ」
剣が見事に紐を断ち切った。足を掴む力が急になくなり、身体がふわりと宙に放り出される。
「ナイス!」
「はぁ、その剣やめてくれない? そんな簡単に切られると自信なくしちゃうわ」
着地すると、すぐにヒローナのもとに駆け寄る。
「どうしたんだその姿」
「姿? 何か変わったか?」
そんな……着替えたわけでもないし。こんな状況でも冗談を言うヒローナにため息をつきながら、服を見ると、青空を思わせるしっかりとした襟の長い服を着ていた。
「背広になってるな」
「祈ったらこうなりました……ってそんなことは後です! 前! 前!」
「えっ」
珍しく大声を上げるセイの指さす方を見ると、巨大な水の塊が空を埋め尽くしていた。なんなら、さっきまで居たはずの大蛇は消えていて、姿を変えたのか巨大な鯨が空に浮いていた。
「ぎゃあああああああああ!」
「落ち着け」
急いで逃げようとすると、ヒローナに襟をつかまれる。
「な、何すんだよ」
「キミは、何の願いを受け取った?」
彼女が、静かに語りかけてきた。
「私は―——」
「アンコから言って欲しい」
セイの助け舟も制止させられる。
「なにって……」
〈あなたが、悲しみから皆を救ってくれますように〉
「みんなを、救ってって……」
「なら、逃げては駄目だ」
空を見上げた。見えるのは、優雅に浮かぶ鯨や巨大な水の塊を後ろに悠々と空中に腰を掛ける天使。
たらりと大きめの汗が頬を伝う。
「今対抗できるのはキミだけなんだ。祈りを受けたキミだけが」
「俺、戦えるかな」
「もちろんだ。セイのことは任せてくれ、必ず避難所まで届ける。その後は、キミの力になると約束するよ」
この人は俺の心を見透かしているのか、安心できる言葉を言ってくれる。
「……ありがとう」
腕の中で静かに眠るセイを、ヒローナに預ける。
「お話は終わったかしら」
「あぁ、終わったさ。わざわざ待っていてくれて助かるよ、て ん し さ ま」
ヒローナが煽るそばで、俺は身構えた。
そっと、肩に手が添えられた。ほのかに温かいその手は俺に勇気をくれる。
「アン、私はいつでもいるよ」
「それじゃあ、思う存分やり合いましょう。素敵なぼっちゃん」
戦いは、空に浮かぶ無数の水の塊から放たれたビームで始まった。
「お願いするよ、アンコ」
「任せろ!!!」
「あ〜そうだ。想像しながら戦え。ある程度は応えてくれるぞ」
広範囲に打ち下ろされるビームを避けると同時に、ヒローナは避難所の方に、俺は天使の方に駆け出した。
初撃を避けられた水のビームは止まらず、地面を抉りながら迫ってくる。
「アン! 周りからきてる!」
「やっべ」
次々に打ち下ろされるビームを避けるのに必死で、正面、左右、後ろの四方から迫りくるビームに気づけなかった。
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「ヒローナさん! 外はどうなっているのでしょうか?!」
「それよりも、この子を預かってくれないか」
「え、えぇ。それは構いませんが……」
避難所に来て早々、責任者の女性の話も聞かずにセイを預ける。
「冷たい……」
雨が地面や避難所の屋根に激しく当たる音、遠くからでも聞こえる濁流の音。そして、爆発する音。この避難所の中からでは想像もできないようなことが、あの天使を中心に起こっているのだろう。
「な、何が起こっているんですか。外で」
女性は震える手で私に聞いてくる。不安で仕方がないはずなのに、状況を分かろうとするその姿勢、避難所にいる皆を安心させたいのだろう。
「今、外では突然現れた化け物が暴れていてね。でも、ここからは遠いし、大丈夫だよ」
「そうなんですね……」
震えていた手に力が入った。
「男の子…ヒローナさんと一緒にいたあの男の子は無事なのでしょうか……? 避難所の中に居ないんです……外はすごい音が鳴っているし、何もないといいんですが」
私は驚いた。避難所はすでにギリギリのはずなのに、さっき会ったばかりのアンコのことも心配している。あまりにもお人好しが過ぎる。
「一つ……聞いても良いか」
私から聞かれると思っていなかったのか、女性は「えっ……まぁ、はい」と困惑の声を漏らした。
「アンコとはついさっき出会ったばかりなのに、なぜ見ず知らずの子を心配できるんだ」
「当たり前じゃないですか! こんな状況で心配しない方がどうかしています。アンコくんだけじゃない、正直言うと、あなたのことも心配だったんですよ。ヒローナさん! もう……もう嫌なんです。この誰が死ぬともわからないような状況で、いたはずの人が帰ってこないのが……」
セイを抱っこしたまま泣き崩れる女性を前に、私は何もできなかった。
「お姉ちゃん……泣かないで」
一人の女の子が、泣きそうな顔をしながら女性の頭を優しく撫でる。その子は、お父さんの帰りを待っている女の子だった。
「意地悪なことを聞いてすまない」
片膝をついて、女性と目線を合わせる。
「アンコは今その化け物と戦っている」
「……! 大丈夫なんですか!?」
「今のところは大丈夫だろうけれど、無事に済むかどうかは分からない。だから―——」
耳が鳴りそうなほど強い爆発音とともに、避難所が大きく揺れた。
「本当に大丈夫……なんですか」
「それは分からない。でも、私が行けば大丈夫だ。だから、」
深呼吸して、精一杯の笑顔でつづける。
「私と……アンコに、祈ってくれるか?」
「何を根拠に―——」
「大丈夫。私、強いから」
かなり強引だったけれど、彼女は納得してくれたのか、セイを床にそっと置いて、胸の前で4を一筆書きするように手を動かす。
「化け物を倒して、あなたと、アンコくんが……」
『無事に帰ってこられますように』
彼女の祈りの声には、感情がこもっていた。私たちを心配する気持ちが。
「ありがとう」
避難所の玄関を抜けて、私の身体は白い光に包まれる。
「安心して待っていてくれ、アンコは必ず連れ帰る」
光が弾けて、服が白い軍服に変わり、黒かったマントは赤く染まる。降ろしていた髪は、ポニーテールに結われる。
私は足に力を入れて、大きく跳びあがる。
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