34:崖から落とされる俺たち
「天…使……」
滝のように降り注ぐ雨に、黒い雲を背景に浮かぶ俺たちを見下ろす天使、陸では段々と草木を呑み込んで行く黄土色の波。その誰もが生きることを諦めてしまいそうな状況に、俺は呆然と立っていることしかできなかった。崖際にいるセイは、天使の方を見ていたけれど、手を口に当てて、膝をついていた。
「走れ! 呑み込まれるぞ!」
「お、おう!」
後ろから聞こえたヒローナの声で、俺は走り出した。ただひたすらに、何も考えずに走り続ける。
「私を無視するなんて、連れないわね」
天使の声が、はっきりと聞こえた。地面を打つ雨の音よりも、ヒローナの声よりもハッキリと。
「『立ち止まりましょう』 急いでいる程にね」
地面から突然水の紐が伸びてくると、俺の腕や足を拘束した。
「クソッ。なにがどうなってんだ……!」
その紐は水でできているくせに、俺がいくら手足を動かして暴れても千切れる気配すらない。
「おい、ほどけよ! この紐…!」
「嫌よ。私を無視して、そこで蹲っているセイちゃんに走っちゃうんだもの」
ほどこうと暴れるたびに水の紐は弾力を増していく。
「お生憎、セイは俺の大切な幼馴染だからな、お前がいたことなんて気づかなかったぜ」
上空でお高く留まっている天使を睨みながら、無駄だと分かっていても暴れていると、身体が急に自由を得る。
「すまない遅くなってしまって」
近くにはいつの間にかヒローナがいて、その手に持つナイフ程の刃渡りしかない剣で水の紐を切ってくれたんだろう。
「ありがとうな!」
少しの感謝を述べて、俺はまた走り出す。
「あら、切れるのね。そんな剣で」
「この剣だからさ」
後ろでヒローナと天使が煽り合いをしているよそで、俺はセイのそばにたどり着いた。
「大丈夫か! おーい、大丈夫か……!」
「なんで……なんでこんなことを」
口に手を当てている少女の瞳孔は開ききっていて、一切光を宿していない。
「おい! しっかりしろ!」
いくら呼び掛けてもセイは俺の方を見てくれなくて、何度も何度も肩を強く揺らしてやっと俺の方を見てくれた。
「ア、アン……アン……! ねぇ、一体どうなってるの……。わた……私、今までみんなが元気にいられるように祈ってきたのに。天使は神様の使いで、皆を救ってくれるって習ったのに……ねぇ…一体どういうことなの……ぉしえて……ょ……」
「しっかりしてくれ! 今そんなこと知ってどうする!」
嗚咽交じりの訴えに、真面目に答えている余裕はなかった。
「ほら、立って逃げるぞ」
セイは一人だと立ち上がれそうになくて、肩を貸す。
「せーの」
掛け声で一緒に立ち上がろうとしたが、力の入らないセイは膝をついたままだった。
「ほら……早く逃げるぞ」
「……うん」
俺の肩を使いながら、ゆっくりと立ち上がる。そのまま、ゆっくりでも良いから崖際から離れようとした時だった。
横殴りになった雨が、俺ら二人を襲った。ザーザーザーと、無数の雨粒の圧倒的物量に俺たちは崖際に押し出されそうになる。
(まずい…落ちる……!)
数十歩先では、崖に落ちそうな俺たちに気づいたヒローナが手を伸ばして地面を蹴っていた。俺もその手を掴もうと手を伸ばす。
「ヒローナ!」
一瞬、一瞬だけ、体勢が崩れた。その隙を見逃さないと言わんばかりに、大量の雨粒が俺たちを押し出していく。憔悴しきったセイは立っているだけでも精一杯で、踏ん張れるはずもなかった。
「誰か助け―——」
崖が視界を遮り、ヒローナや天使も見えなくなる。目に映るのは、ヒローナと跳んだときに見えた大きな瓦礫の街。
「ぎゃあああああああ…! 死ぬ! 死ぬ! 俺落ちてるうううう!」
支えていたはずのセイは俺のそばにいなくて、少し左で俺と同じように落下している。
「アンコ! セイ!」
崖上から、ヒローナの声がした。聞こえた方に視線を向けると、崖を蹴って降下するヒローナがいた。あいも変わらずに俺たちに向かって両手を差し伸べる彼女に救われたくて、俺も手を伸ばす。
彼女なら助けてくれると、こんな死ぬかもしれない状況でも信じられる。
―——ドォン!
崖上は、土煙が上がっていた。天使の仕業なのか、正体不明の脅威に身構えていると、土煙の中から巨大な黄土色の蛇が飛び出てきた。
蛇は俺たちを呑み込むつもりなのか、濁流のように体を伸ばしてくる。体の色や、激しく波打つ体表に、決壊した川の水が連想される。蛇は落下する俺たちよりも明らかに速い。
ヒローナは俺たちを助けるのに必死で、上に気づいていない。
「ひ………ナ……ー! ぅ………だ!」
このままだと全員が呑み込まれそうで、必死に彼女に向かって叫ぶが口の中の空気が激しく乱れてしまって、声にもならない単語が空中に消える。
蛇に向かって指をさしても彼女は目を俺たちから離さない。
「ヒローナ……!」
互いが伸ばした手は指先をかすめたが、無慈悲にも黄土色の巨大な蛇は彼女を飲み込んで、崖上に引き返していった。
「クソッ」
終わった……助けてくれる人が居なくなってしまった。手を伸ばしても誰も掴んでくれない。もう、このまま落ちていくしかない。そして、地面に叩きつけられる。
頭の中が絶望色に染まってゆく中、肩を誰かが掴んだ。
「………セイ」
目を開けると、眉間にしわを寄せたセイが俺の肩を掴んでいた。
「私ね、まだ死にたくない。聞かなきゃいけないこと、増えちゃった。それに……諦めないアンたちを見ていたら、生きたくなっちゃった」
からかう時とは違う、彼女の真剣な声のトーン。肩に加わる指の圧力。落ちていくしかない状況でも、俺は思わず耳を傾けていた。
「ねぇ、アン。私を、救けてくれる?」
「当たり前だ! お前が諦めないなら、俺はいくらでも頑張る……!」
セイが俺の手に指を絡ませる。
「なら言って! ヒローナの決め台詞!」
彼女の決め台詞なんて、一つしか思いつかなかった。
「俺に、祈ってくれるか?」
「えぇ! もちろん!」
手をつなぎながら、セイは瞳を閉じて祈る。
『あなたが、悲しみから皆を救ってくれますように』
街の中心にある塔の美しい天使を模したステンドグラスが少しだけ、煌めいて見えた。




