8. 王族ニヒルの花嫁──ゆうの絶望
アデン国 パール城 別館 ゆうの部屋
重厚な扉が音を立てて開くと、ゆうはそこに広がる光景に一瞬、息を呑んだ。
豪華なシャンデリアが天井に輝き、壁には繊細な刺繍が施されたタペストリーが掛けられている。絨毯はふかふかで、深紅と金を基調とした装飾が施された調度品が、まるで美術館の展示品のように整然と並んでいた。
中央には大きなセミダブルのベッドが据えられ、隣にはゆったりとした応接室のようなスペースがある。これが「自分の部屋」なのかと、ゆうは信じられない思いだった。
(……中世の貴族って、こんなに凄いのか……)
まるでシティホテルのスイートルームのような贅沢な空間に、戸惑いながらも、ゆうは奥へと足を踏み入れる。
「お気に召しましたか?」
背後から、上品な声が響いた。
振り返ると、そこにはカオリが立っていた。整った顔立ちの、年若い従者。彼女はまっすぐにゆうを見つめ、微笑を浮かべていた。
「……あのさ」
自分でも戸惑いながら、ゆうは口を開いた。
「僕は……誰なんだ?」
カオリの表情が、一瞬だけ曇る。まるで「何を言っているんですか?」とでも言いたげな戸惑いが、かすかに瞳に浮かぶ。しかしすぐに、その表情は元の落ち着いたものへと戻り、彼女は静かに口を開いた。
「ゆう様は、隣国ホウコーの貴族でございます」
「ホウコー……?」
「はい。アデン国にご滞在中の、高貴なお方です」
そう言われても、ゆうには全く実感が湧かない。そもそもホウコーという国がどこにあるのかすら、知らない。だが、今の彼にとってそれよりも気になることがあった。
「じゃあ……ニヒルは?」
カオリは穏やかに微笑みながら答える。
「ニヒル様は、アデン国の王族にございます」
「……王族?」
「ええ。王位継承権をお持ちです」
王族——。ゆうは無意識に息を呑んだ。王族と貴族では、立場がまるで違う。自分はただの貴族にすぎないのに、そんな人物と並んでいたのか……?
不安が胸をよぎる。しかし、今最も知りたいことは、別にあった。
(のぞみさんは、この世界でどんな立場なんだ……?)
ゆうは、慎重に言葉を選びながら尋ねる。
「……じゃあ、僕の隣にいた女性。彼女は誰なんだ?」
カオリは再び、わずかに戸惑うような表情を見せた。しかし、それはほんの一瞬。すぐに穏やかな口調で、彼女は答えた。
「……あなたのお姉さんではありませんか?」
「…………え?」
頭が真っ白になった。何を言われたのか、理解が追いつかない。
「……のぞみさんが?」
「はい。のぞみ様は、ホウコーからご一緒に来られた、あなたのお姉様です」
カオリは、まるで「何をそんなに驚いているのか」というように、ごく普通のことを説明するような調子で言う。しかし、ゆうにとってそれは、現実が音を立てて崩れていくほどの衝撃だった。
「……嘘だろ」
「何が、嘘なのです?」
「僕とのぞみさんは、兄妹じゃない……!!」
カオリの眉が、かすかに寄せられた。
「ゆう様、何を仰るのですか? のぞみ様は、れっきとしたあなたの姉君にございます」
ゆうの鼓動が異様な速さで跳ね上がる。のぞみが、姉……? そんなこと、あり得ない。彼女は自分の恋人で、血の繋がりなんてないのに。
しかし、カオリの口調はどこまでも淡々としている。まるで「当たり前のことです」と言わんばかりに。
「では……のぞみさんが、アデン国にいるのは、どうして?」
「嫁がれるのです」
心臓が止まりそうになった。
「……え?」
カオリは、ゆうの反応を不思議に思うこともなく、ただ静かに言葉を続ける。
「のぞみ様は、アデン国の王族に嫁がれるために、こちらへお越しになったのです」
全身が硬直する。
「……嫁ぐ? 誰に?」
カオリの答えは、あまりにも簡潔だった。
「ニヒル様です」
——雷に打たれたような衝撃が、ゆうの体を貫いた。
現実が崩れ去る。言葉にならない。思考が追いつかない。
のぞみさんが……ニヒルに……嫁ぐ?
「嘘だ」
声が震えた。
「そんなの、嘘だ!!」
カオリは、そんなゆうをじっと見つめていた。
「……ゆう様、本当にどうなさいました?」
彼女の瞳には、ゆうが何をそんなに驚いているのか、心から理解できないという色が浮かんでいた。
「そんなこと……そんなことがあるはずない……!!」
しかし、カオリの穏やかな声は、ゆうの必死の否定をあっさりと押し流した。
「いいえ、これは決まっていたことです」
決まっていた……? 何が? 誰が決めた?
思考が混乱し、まともに言葉すら出せない。
カオリはただ、ゆうの困惑を静かに見つめながら、まるで「今さら何を言っているの?」というような表情をしている。
——のぞみさんが、ニヒル……いや、似蛭に嫁ぐ?
しかも、僕とは血の繋がった姉弟だって……?
理解できない。いや、理解したくない。
頭の中が真っ白になる。心臓の鼓動がうるさいほど鳴り響き、手のひらにじっとりと汗が滲む。
そんなはずがない。そんなこと、あるはずがない……!!
けれど、カオリの表情はあくまでも落ち着いていて、まるで「何をそんなに驚いているのか」とでも言いたげだった。
彼女にとって、それは「当たり前の事実」。
この世界では、のぞみさんは僕の姉——。
この世界では、のぞみさんはニヒルに嫁ぐ運命——。
まるで悪夢だ。
——その時だった。
ふと、今日立ち会ったクリスとヒーダの裁判の光景が、ゆうの脳裏に鮮やかに蘇る。
『姉弟の禁断の恋は重罪である。男は奴隷となり、女は……おぞましい三日間を執行人のガイメンと過ごさねばならぬ』
あの言葉を口にしたのは、隣に座っていた貴族の老婆だった。
ぞくり、と背筋が凍る。
ヒーダの元へと向かう、獣のようなガイメンの姿が脳裏に浮かぶ。あの血走った目。にやりと笑う裂けた口元。
ヒーダの絶叫が、耳の奥でこだまする。
「やめて!! クリス!! 嫌ぁぁぁぁ!!」
ゆうは息を呑んだ。
——僕とのぞみさんは、恋人同士だ。
もしそれがこの世界でバレてしまったら……
(……裁かれる?)
喉の奥がひゅっと詰まる。視界がぐにゃりと歪んだ。
——まずい。
占いの館ふわりとマムの世界で、似蛭は僕たちが恋人であることを知っていた。
ということは——
この世界のニヒルも、それを知っている?
そんな、馬鹿な。
けれど、考えれば考えるほど、背筋が冷えていく。
似蛭は、過去も現在も、何もかも知っていると言っていた。
「バカな……」
声が震える。
もし、この世界のニヒルも同じ能力を持っていたとしたら?
ゆうの脳裏に、泣き叫ぶヒーダの姿がよぎる。
それと同時に、スキー場のゴンドラの中で、のぞみと交わしたファーストキスが、まるで走馬灯のように蘇る。
——これは、夢じゃない。現実だ。
のぞみとのあの瞬間が、もしニヒルに知られていたら?
それだけじゃない。
貴族の老婆は、さらにこう言っていた。
『姉弟での……口にするのもはばかられるおぞましい行為、それが発覚すれば——処断される』
ゆうの脳裏に、ペンションの夜が鮮やかに蘇る。
暖炉の灯りに照らされた、のぞみの頬。
触れ合う肌の温もり。
切なくさえずる声。
——僕たちは、処断されるって?
「……っ」
ゆうは無意識に奥歯を噛みしめた。手が震える。
そんなこと、あるわけない。
似蛭は、占いの館で「僕たちの過去も何もかも分かる」と言っていた。
なら、僕とのぞみさんが結ばれていることも——?
「……いや、違う。そんなはずない。あれはペテンだ……!!」
ゆうは必死に自分に言い聞かせる。
あれはただの手品みたいなものだった。
だが、それは本当にただの手品だったのか?
ゆうの背中に冷たい汗が伝う。
——似蛭は、最初からのぞみさんを僕から奪うつもりだった。
そして、この国の法で言えば、僕たちの恋は重罪になる。
もし、似蛭がそれを知っていたとしたら?
もし、似蛭が僕たちの弱みを握っていたとしたら?
それで、裁判の場面に僕たちを呼び寄せたのだとしたら——。
「…………ッ!!」
点と点が繋がり、一つの線となる。
ゆうの体が震え出す。
「……どうなさいました?」
カオリの声が聞こえた。
ゆうははっと顔を上げる。
カオリが、不思議そうにゆうを見ていた。
「汗が……すごいです。お加減が悪いのでは?」
ゆうは自分の額を触る。ひどく濡れていた。手のひらも、背中も、びっしょりだ。
「……水を……」
喉が張り付いて、声がかすれる。
カオリは一瞬驚いたようだったが、すぐに微笑み、恭しく頷いた。
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
カオリが部屋を出ていくのを確認すると、ゆうは床に手をついた。
呼吸が荒い。
意識が混乱する。
「……僕は……どうすれば……」
冷や汗が、ぽたり、と床に落ちた。




