42. 光の中へ──二人の帰還
アデン国 パール城――初夜の儀の間。
空気が裂けるような叫びが、石壁を震わせていた。
「うおおおおおおおおおッ!!」
ゆうの喉から放たれる咆哮は、もはや人のものではなかった。全身から噴き出す赤い炎――それは焔というより、業火。怒りと焦燥、そして守るべきものへの執念が混ざり合い、暴れ狂う。
床が軋む。柱が悲鳴を上げる。
次の瞬間、パール城全体が大きく揺れた。
――ゴゴゴゴゴゴッ!!
天井から装飾の石片が崩れ落ち、燭台が倒れ、炎が散る。衛兵たちの怒号と悲鳴が入り混じる中、ゆうの周囲だけが、灼熱の嵐のように歪んでいた。
「こ、この地震……まさかお前が……!」
ニヒルが目を見開き、ゆうへと踏み出す。その表情には、初めての明確な“動揺”が浮かんでいた。
ゆうは、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳は――燃えていた。
「……来るな」
低く、押し殺した声。だがその一言に、空気が凍りつく。
次の瞬間、ゆうは鎖を引きちぎり、隣にいたガイメンの剣を掴み取った。奪われた本人が反応する暇すらない。
剣が、紅蓮に包まれる。
「うああああああッ!!」
振るわれた。
だが刃が届く前に――
――ドンッ!!
見えない圧が空間を叩いた。
「ぐはっ……!」
ニヒルの体が弾き飛ばされ、背後の石壁へ叩きつけられる。壁に亀裂が走り、粉塵が舞い上がった。
「馬鹿な……剣の“気”だけで……!」
ゆうは応えない。ただ、炎をまといながら立っている。
城はなおも揺れ続けていた。天井の亀裂が広がり――
その時だった。
「のぞみさん!!」
のぞみの真上に、巨大な石塊が崩れ落ちる。
回避は――間に合わない。
だが。
「……っ!!」
ゆうの体が弾けるように動いた。
ドォン!!
落下してきたそれを、両腕で受け止める。
あり得ない。
人が支えられる大きさではない。だがゆうは――持ち上げていた。
「……大丈夫だから。のぞみさん…」
歯を食いしばりながらも、ゆうはそれを押し上げる。へーラーの赤い炎が腕に巻きつき、筋肉が軋むたびに火花が散った。
ニヒルの目が、信じられないものを見るように見開かれる。
「そんな……力が……!」
その瞬間、ゆうは視線だけでニヒルを射抜いた。
そして――
「食らえええええええッ!!」
巨大な石塊を、投げた。
轟音とともにそれは一直線に飛び、ニヒルを下敷きにして押し潰す。
「がっ……!」
逃げ場はない。
石と壁の間に挟まれたニヒルの上へ、さらに崩落した石が次々と降り注いだ。
「ぐ……あ……!」
埋もれていくその姿を一瞥もせず、ゆうはのぞみのもとへ駆け寄る。
「のぞみさん!」
その体を抱き上げる。
「大丈夫!?」
「ゆう……君……!」
揺れる床。崩れる天井。時間はない。
ゆうは振り返り、中庭へと続く回廊を見据える。
「しっかり掴まって!」
全力で走り出す。瓦礫を蹴り飛ばし、赤い炎をまとったまま、一直線に。
その途中で、叫ぶ。
「のぞみさん!あの小瓶は持ってる!?」
のぞみははっとして、胸元を探る。
「持ってる!これ!」
震える手で取り出したのは、淡い透明の蜜が揺れる小瓶――二つ。
先日のお茶会、テーブルの下で交わされた約束。ゆうが落とし、拾えなかったもう一つ。
今、二人の手に揃っている。
中庭へ飛び出した瞬間、月光が開けた。
だが同時に――
「いたぞッ!!」
「捕らえろ!!」
四方から衛兵たちが押し寄せてくる。鎧の音、足音、怒号が渦巻く。
逃げ場は、もうない。
ゆうは小瓶を受け取ると、栓を弾き飛ばした。
「……いい?」
「うん……!」
二人は同時に、透明な蜜を口に含む。
甘く、そしてどこか現実離れした感覚。
――ゴクリ。
飲み込む。
その刹那、世界がわずかに歪む。
だが、まだだ。
衛兵たちはすぐそこまで迫っている。
「止まれええええ!!」
槍が突き出される寸前。
ゆうとのぞみは――互いを見た。
言葉はいらなかった。
ゆうがのぞみを引き寄せる。
のぞみも、強く抱きしめ返す。
そして――
唇が重なる。
熱い、確かな感触。
その瞬間――
ドォォォォォォォォン!!!!
――閃光。
二人の体から、眩い光が爆発するように溢れ出した。
「なっ――!?」
衛兵たちがひるむことなく、その光へと突撃する。
だが。
そこにはもう――
誰もいなかった。
残されたのは、崩れゆく城と、光の残滓だけ。
パール城はなおも揺れ続ける。
すべてを飲み込むように、静かに、崩壊へと向かっていった。
ーーーー
崩れた城の瓦礫が、月明かりに照らされている。
倒れ伏した衛兵たちの鎧が、冷たい風に晒され、静かに光を反射していた。
中心には、一瞬前まで眩い光を放っていた二人の姿——のぞみとゆう——の姿は、もうどこにもない。
代わりに、空気がわずかに震え、光の余韻が名残惜しげにゆらめいている。
やがて、静寂。
風がそっと瓦礫の間を吹き抜け、砂埃がわずかに舞う。
その静けさの中で、ひとり、ゆっくりと歩いてくる小柄な影があった。
深いマントに身を包み、フードを目深に被ったその人物からは、ほのかに甘やかな香水の香りが漂っていた。
マムだった。
彼女は迷いなく、二人が消えた場所へと近づく。
一歩、また一歩と歩みを進め、柔らかく立ち止まったその瞬間——
ふわり、と黒装束の女性が、闇から滑るように現れる。
ふわり。
彼女は悠然と微笑み、消えた二人のいた場所を見つめた。
やがて、マムに向き直る。
「見事でした、マム」
マムは静かに頷く。
「ありがとうございます、ふわり様」
ふわりは一歩前に進み、瓦礫の上に立った。
そこから見下ろすのは、崩れた王国の象徴——パール城の中庭。
「これで、王家は断絶となりました」
どこか遠くを見つめるような声だった。
マムはふわりの言葉を受け、静かに呟く。
「それで良かったのです」
王家という呪縛から解き放たれたこの国は、ようやく新たな時代へ進める。
「では、行きましょうか」
ふわりの声が、闇に溶ける。
マムは頷く。
「ええ、ふわり様」
二人の影が、そっと夜の闇に溶け込むように消えていった。
⸻
パール城 ゆうの部屋
夜風がカーテンを揺らし、窓辺の燭台の炎が小さく揺れた。
窓の外、中庭の様子をじっと見下ろしている二つの影がある。
ゆうの従者、カオリ。
のぞみの従者、ヒメン。
二人は長い沈黙のあと、静かに口を開く。
「……無事に、帰れたのでしょうか?」
カオリの問いに、ヒメンはそっと目を細める。
「おそらく……」
遠く、瓦礫に囲まれた中庭は、静寂に包まれていた。
もう戦いの喧騒も、悲鳴もない。
ただ、彼らがいたという余韻だけがそこに残っていた。
「……見ていて、羨ましい二人でした」
ヒメンの言葉に、カオリは微かに微笑む。
「ええ。あれほど深く愛し合う二人は、今まで見たことがありません」
静かに夜の風が吹く。
カオリは、少しだけ目を伏せる。
「……ゆう様は、私が添い寝をしても、何もしてきませんでした」
ヒメンが驚いたようにカオリを見る。
「美人なあなたが添い寝していたのに? そんな人、なかなかいませんよ」
カオリはわずかに肩を竦める。
「ふふ……ええ。でも、ゆう様はのぞみ様しか見えていなかった」
ヒメンはしばらく黙り込んだ後、少し冗談めかして言った。
「少し期待したのですか?」
カオリは一瞬きょとんとし、それから小さく微笑んで首を振る。
「いいえ。私は従者です。従者の職務を全うするだけ」
ヒメンはその言葉を噛み締めるように頷いた。
それでも——
「……また、あの人たちと会えるでしょうか?」
小さな問いかけ。
カオリは少し驚いたようにヒメンを見た。
その瞳には、先ほどまでの冷静さとは違う、かすかな寂しさが宿っていた。
カオリはふっと微笑む。
「それは……私も、思っています」
二人はもう一度、静かに中庭を見下ろした。
白い瓦礫と、吹き抜ける夜風。
彼らがいた場所。
彼らが消えた場所。
—— いつか、また。
月の光が、そっと二人を包んでいた。




