36. 卯の刻の覚醒──二人を結ぶ声
アデン国 パール城 ニヒルの部屋 卯の刻(朝6時ごろ)
暗い室内。天蓋付きの大きなベッドの上で、のぞみは身じろぎもせず天井を見つめていた。
昨夜の出来事が脳裏に焼き付いて離れない。
――地震が来る直前、ニヒルの手が、私の両手首を押さえつけていた。
薄暗い燭台の光の中、男の冷たい視線。重くのしかかる圧。
そして、あの瞬間。
――ズズンッ!!
突如として襲った激しい揺れ。天井のシャンデリアが悲鳴を上げるようにきしみ、壁に飾られた豪奢な絵画が床に落ちた。
その隙に、のぞみは咄嗟に身を捩り、ニヒルの手から逃れることができた。
しかし。
「……戻ってくる。」
のぞみは、布団の端をぎゅっと握りしめた。
あいつは戻ってくる。
大地震で城が騒然となり、ニヒルは部屋を出て行った。しかし、今夜の婚姻の儀のことを考えれば、必ずまたこの部屋に帰ってくるはずだ。
その時、今度こそ、あの男に抗う術はないのかもしれない。
――でも、なぜ昨夜、あのタイミングで地震が?
ふと、のぞみの思考が過去へ遡る。
あの時、ベッドの上で必死に抵抗しながら、のぞみは心の中である名前を呼んだ。
――ゆう君!
すると、その瞬間、あの地震が起こった。
偶然? それとも……?
「……まさか。」
のぞみは自らの手を見つめた。
マム。
数日前、一騎打ち戦の最中、のぞみは密かにマムのもとを訪れていた。
あの時、マムは微笑みながら、のぞみの額に自分の額をそっと重ねた。
「のぞみ様、きっとお役に立ちます。」
あの時、確かに何かが流れ込んできた。温かく、不思議な感覚。
もしかして、あの時授かったものが……?
のぞみは、ゆうがジロームと戦ったあの一騎打ちを思い出す。
馬にさえまともに乗れなかったゆうが、赤い炎をまとい、剣を振るだけでジロームを吹き飛ばした。
――あの時、私はニヒルに肩を抱かれていた。
その瞬間、ゆうはそれを見ていた。
あの瞬間、ゆう君は「怒り」によって、自分では持っていないはずの力を引き出した……?
「……もしかして。」
のぞみの脳裏に、ある仮説が浮かぶ。
もしかして、ゆうもマムから何かの能力を授かっていたのではないか?
そして、それが発動するのは、ゆう君が私の危機を感じた時?
だとすれば――
私が、ゆう君に危機を伝えられれば、ゆう君は意のままに超常的な力を使える?
「……でも、どうやって?」
のぞみは考える。
そうだ。自分には今、マムから授かった不思議な能力がある。
「できる……私なら、できる!」
のぞみの胸が高鳴る。
婚姻の儀と初夜の儀が行われるのは今夜。
ニヒルの妻となるなんて、絶対に嫌だ。
私の心も、体も、すべてゆう君のものだから。
のぞみの脳裏に、ゆうと結ばれた甘い夜がよみがえる。
栂池高原スノボ旅行の夜。
あの優しく、熱く、愛おしい時間。
――ゆう君しかいらない。
のぞみは決意する。
自分の意思を、ヘルメスの力でゆう君に伝える。
そして、ゆう君の力を呼び覚まし、この地獄から抜け出す。
静かな部屋の中、のぞみは瞳を閉じた。
――ゆう君、聞こえる?
その頃、ゆうの部屋 卯の刻
――静寂。
わずかに揺れる天蓋のカーテン。
ゆうはゆっくりと目を開けた。
天井を見つめながら、昨夜の出来事を思い出す。
――あの地震は、何だったんだ?
幸い、この部屋にはほとんど被害がない。ベッドも崩れていないし、家具も無事だ。まるでこの部屋だけが守られていたかのように。
そして……
「……ん……」
ふと、横を見ると、カオリがゆうの腕に頬を寄せたまま、静かに寝息を立てていた。
昨夜の地震の後、彼女はゆうから離れなかった。
「怖いです……ゆう様、離さないで……」
普段は凛々しく毅然としたカオリが、まるで幼子のように震えていた。
ゆうはその背中をそっと撫でながら、落ち着くまで抱きしめてやった。
――それにしても、あの地震は何だったんだ?
異様な揺れだった。ただの自然現象とは思えない。
あの瞬間、何かが――
ピリリ――
「……!」
突然、頭の中に響いた。
鋭く、鮮明な音。昨夜の地震の時と、まったく同じ感覚。
ゆう君……
「の、のぞみさん?」
はっきりと聞こえた。
のぞみの声だ。
錯覚のはずがない。のぞみの声を聞き間違うはずがない。
――私。のぞみ。
「のぞみさん……!?」
ゆうは飛び起きる。隣で寝ていたカオリが小さく寝返りを打つが、それどころではなかった。
のぞみが、今、自分に語りかけている――!?
――私はマムから能力を授かったの。遠く離れていても、こうして意思を伝えられる力。ゆう君に届いている?
「届いてる……!ちゃんと聞こえるよ、のぞみさん!」
声に出しても、のぞみには届かないのかもしれない。でも、必死に叫ばずにはいられなかった。
――よかった……ゆう君、聞いて。あなたは、マムから何かの能力をもらっている。
「え……?」
ゆうは息を呑んだ。
マムから、能力を?
――ゆう君は、自分では気づいていないかもしれない。でも、私は確信してるの。あなたは、“私が危機だ”と思った時、信じられないほどの力を発揮するのよ。
「僕が……?」
――一騎打ち戦の時、ジロームを馬ごと吹き飛ばしたでしょう?あれは、普通の人間の力じゃない。そして、昨夜の地震も。あの時、私はニヒルに――
言葉が一瞬途切れる。
しかし、ゆうの胸の奥に鋭い怒りが湧き上がった。
――私は、ニヒルに襲われそうになっていた。
「……ッ!!」
拳を握る。
まさか、のぞみさんが――
――その瞬間、地震が起こった。私が『助けて』と心で叫んだ時に。偶然なんかじゃない。ゆう君の力が発動したのよ。
「僕の……力……」
言われてみれば、確かにそうだ。
ジロームを馬ごと吹き飛ばした時も、あの瞬間、のぞみさんがニヒルに肩を抱かれていた。
ゆうは、あの光景を見て――
「許せない」と思った。
そして、力が溢れた。
昨夜の地震も、のぞみさんが「助けて」と思った瞬間に起こった。
まさか、本当に……?
――だから、ゆう君。この力を使いこなして。あなたなら、できる。
のぞみの声は、まっすぐに響く。
「僕なら……」
のぞみを救える?
「できる……!絶対に!」
自分が今まで謎に思っていたことが、一気に繋がった。
この力を意のままにできるなら――
「本当に……できるのか?」
脳裏に蘇る光景。
一騎打ち戦の準決勝。剣を振っただけで、ジロームが馬ごと吹き飛ばされた。あの時、確かに自分は何かを解き放った。さらに昨夜——ほんの一瞬、のぞみの身に迫る危機が伝わった時、地震が起こった。
(あの力……マムの与えた力……)
それを意識的に使えれば、ニヒルを葬り去り、のぞみを助け、現世へ帰ることができる。
ベッドの上で膝を立て、手のひらを見つめたまま、そっと目を閉じる。そして、のぞみのことを考えた。
あの夜、怯えた声で自分を呼んだのぞみ。
必死で助けを求める、あのか細い声——
「ゆう君……たすけて……」
瞬間、指先が熱を帯びる。
ボウッ——
闇の中に、かすかな黄色い炎のような光が揺らめいた。
「……いける」
ゆうは確信した。これは、のぞみを救うための力だ。
ベッドの上から、勢いよく立ち上がる。
その時、隣で微かに布が擦れる音がした。
カオリが、ゆうの動きに気づかず、まだ眠っていた。美しい顔は穏やかで、かすかにゆるんだ唇からは、静かな寝息が漏れる。滑らかな絹のパジャマが月光を反射し、ほのかに光る。
(……悪いな、カオリ。でも、俺にはやるべきことがある)
ゆうは静かに息を整え、決意を新たにした。
今日——一騎打ち戦の決勝。
相手は、ニヒル。
二日前の狩り。
ニヒルは大猪をたった一太刀で仕留めた。鋭く、迷いのない一撃。あれを見た瞬間、自分が勝てるはずがないと絶望した。
だが——
今の自分は違う。
手のひらに、のぞみを想うたびに灯る黄色い光。それが意味するものを、もう理解している。
ゆうは拳を握りしめ、静かに呟いた。
「待ってて、のぞみさん」
窓の外、夜が白み始めていた。
そしてその瞬間、
のぞみとゆうの間に生まれた“見えない絆”が、
自分達の運命を静かに動かし始めていた。
ただ──その黄色い光は、あの時ゆうが見せた青と赤の炎とは、どこか違っていた。




