35. 覚醒の夜──二つの力、世界を揺らす
アデン国 パール城 ゆうの部屋 亥の刻
ゆうは静かに椅子に腰掛けていた。寝るにはまだ心が落ち着かない。のぞみは、お茶会の後、無事だったのだろうか。気丈に振る舞っていたが、ニヒルの執拗な視線を浴びていたことを考えると、不安で仕方がない。
視線を横に移すと、ベッドではカオリが穏やかな寝息を立てていた。暗がりの中でも、その美しい顔立ちは際立っている。従者でありながら、こうして眠る姿はどこか儚げだ。
ゆうはそっと右手を見つめる。指先にはまだ、のぞみの手を握った温もりが残っていた。あの瞬間、のぞみは確かに強く握り返してくれた。細くて華奢な手だったが、その中には何か強い決意が込められていた気がする。
「……のぞみさん」
呟いた瞬間だった。
—— ピリリッ
頭の奥で何かが弾けるような感覚が走った。
「……何だ、今のは……?」
眉をひそめた直後、再び——
—— ピリリッ
そして、同時に。
——「ゆう君!」
のぞみの声——!?
ゆうは息を呑んだ。確かに聞こえた。錯覚ではない。
胸がざわつく。何か、嫌な予感がする。
—— ピリリリーッッ!!!
耳鳴りのような鋭い音が響いた瞬間、ゆうの脳裏にスクリーンが広がった。まるで目の前に映像が投影されるように、鮮明な光景が浮かび上がる。
そこには——
のぞみが、ベッドの上で、ニヒルに両手首を捕まれていた。
「———ッ!!!」
ゆうの心臓が凍りつく。
「のぞみさん!!」
まさか。そんなはずはない。いや、これは幻なんかじゃない。
「ゆう君、助けて!!」
のぞみの悲痛な叫びが響いた。
「のぞみさん!!」
「ゆう君、私は……私はゆう君しか……ゆう君しか!!」
叫びながら、のぞみは必死に抵抗していた。しかし、ニヒルの力は強い。彼女の細い手首は、完全に捕らえられている。
—— これは悪夢ではない。
—— 幻想なんかじゃない。
これは、今まさに起きている現実だ。
ニヒルが——ニヒルが、自分の愛するのぞみに狼藉を働こうとしている。
その瞬間だった。
ゆうの中に——熱い何かが突沸するように湧き上がった。
嫉妬。怒り。激昂。憤怒。
赤い炎を湧き上がらせる。
ヘーラーの力だ。
—— ニヒルーーーーーッッ!!!!
怒りの咆哮が、夜の静寂を切り裂いた。
「っ!? ゆう様!!?」
カオリが驚いて飛び起きる。
しかし、次の瞬間——
—— グラグラグラグラッッ!!!!
揺れた。
いや、それは「揺れた」というような生易しいものではない。
城が、轟音とともに軋んだ。
巨大地震だ。
パール城だけじゃない。アデン国全体を、恐ろしい揺れが襲ったのだ。
「な、何事ですか!? ゆう様!!?」
カオリが慌てて駆け寄るが、揺れで足元がおぼつかない。部屋の壁が軋み、家具が倒れ始める。
「っ……ニヒルが……!!」
ゆうの目には、怒りしかなかった。
「……のぞみさんを、あの手で……!!」
その言葉を聞いた瞬間、カオリは息を呑んだ。
「……まさか、ゆう様が……この地震を……?」
ゆうの周囲には、赤く光るオーラが揺らめいていた。それは、神の力。嫉妬の女神ヘーラーの最大級の怒りだ。
「カオリ、すぐに支度をしろ。のぞみさんを助けに行く。」
ゆうの声は、静かだった。だが、その奥に秘められた怒りは、地震よりも遥かに強大なものだった。
ーーーーー
暗闇の中、燭台の揺れる炎が、広々とした豪奢な部屋をぼんやりと照らしていた。重厚な調度品に囲まれたその中心——大きな寝台の上で、のぞみは両手首を掴まれ、身動きが取れなくなっていた。
「大人しくしろ。」
ニヒルが口元を歪める。
「今からたっぷりと味わってやる。喜べ。」
嗜虐的な笑みを浮かべたニヒルの顔が、ゆっくりとのぞみに近づいていく。
「……っ!!」
のぞみは目を強く閉じ、震える唇を噛み締めた。
——ゆう君!
心の中で叫ぶ。いや、実際に声に出していた。
「ゆう君っ!!」
その時——
ゴゴゴゴゴ……ッッ!!
地の底から響くような、不気味な音が部屋全体に広がった。
「……なんだ?」
ニヒルの眉がぴくりと動く。
「……地震か?」
だが、次の瞬間——
—— ドンッ!! ガタガタガタガタ!!
強烈な横揺れが部屋を襲った。
揺れは尋常ではない。
燭台が倒れ、家具が軋みながら崩れ落ちる。
「なっ……!!」
ニヒルの体が大きく揺さぶられる。
「……ッ!」
のぞみの細い手首を握る力が緩んだ。
「———っ!!」
のぞみは、すかさずその手を振り払い、寝台から転がるように離れた。
「クソッ……!」
ニヒルは乱れた髪を掻き上げ、歯噛みする。
揺れはさらに激しさを増し、壁が軋み、天井から細かい砂が降り注ぐ。
—— ギィィ……バキンッッ!!!
大理石の柱に飾られていた巨大な装飾棚が、鈍い音を立てながら崩れ落ちた。
「な……ッ!?」
ニヒルは素早く身を翻し、倒壊する家具の間をすり抜ける。
窓の外からは人々の叫び声が響いていた。
「キャアアアア!!」
「殿下!お逃げください!!」
「壁が崩れるぞ!!」
城のどこかで、石が砕ける音がする。
「……何が起こっている?」
ニヒルは不機嫌そうに舌打ちしながら、乱れた寝衣の裾を直した。
—— ガタガタガタッッ……
しかし、揺れはまだ続いている。
「……まさか、王族の私がいるこの部屋が……」
呟いた刹那——
バァンッ!!!
扉が荒々しく開いた。
衛兵が数名、慌ただしく駆け込んでくる。
「ニヒル様!!」
「どうした?」
ニヒルは不機嫌そうに振り返る。
「玉座の間に甚大な被害が出ております!! 壁の一部が崩落し……王宮の塔のひとつが……!!」
「……何?」
ニヒルの表情が一変する。
「崩落……だと?」
「はい、急ぎご確認を!」
「……ちっ」
舌打ちをし、ニヒルは振り返ることなく部屋を後にした。
扉がバタンッと閉まる。
—— 静寂。
のぞみは、カーペットの上に座り込んでいた。
大きな揺れが収まっても、まだ体は震えていた。
……助かったのか?
いや、助かったのではなく、偶然、生き延びただけ。
「……ゆう君……」
頬を伝う涙が、静かに床へと落ちる。
のぞみは、ただひたすらに震えながら、愛しい人の名を呟き続けた。
ーーーーー
大きな雷鳴のような轟音が、深夜の静けさを破った。アデン国のパール城の隅々にまで伝わるその音は、まるで天が怒りを示すような不穏な振動を伴っていた。亥の刻、月の光すら薄暗く感じるほどの不気味さを帯びて、ジローム裁判長の部屋に静かな緊張が漂う。
ジロームはベッドの上で横たわり、手当てを受けている。ひとたび強大な力を持っていたこの男は、今や戦の傷で動けぬ身体を持ち、重い眠りに落ちている。脈打つような静寂が支配するその部屋の中で、ただ一人、黒い装束を身にまとった女性が立っていた。
マム。
彼女はジロームの近くで静かに佇み、まるで何かを待っているようだった。全身から発せられる香水の香りは、何とも不思議なもので、空気をほんのりと甘く包み込んでいる。しかしその香りの中に、ほんの少し鋭いものを感じる者もいるだろう。
そして、突如として大地を揺るがすような地震が収まった瞬間――
部屋の扉が開かぬまま、闇の中からふっと現れた人物が一人。
その女性は、まるで空間そのものを切り裂くようにして現れた。黒魔術装束に身を包み、深い闇の中から漂う気配が周囲の空気を一変させる。その姿は、どこか幻想的で異次元から来たような、不思議な魅力を放っていた。
ふわり。
彼女の出現と同時に、部屋の温度が一瞬だけ下がったような錯覚を覚える。
マムはその女性の存在を感覚的に感じ取り、すぐに頭を垂れるようにして深く一礼する。
「何かしましたね、マム?」
ふわりの声は低く、耳に心地よい響きだが、どこかしら冷たく、鋭い。
「はい、ふわり様。」
マムは一度息を整え、静かに答える。
「のぞみ様にヘルメスを。」
その一言に、ふわりは微かに頷いた。理解したというように、ほほえみを浮かべる。
「あなたがやったのですね。」
「ふわり様、身に余るお言葉でございます。」
マムの声は、謙虚ながらも、その目の奥に強い意志が込められているのが見て取れる。
ふわりは、しばらく無言でマムを見つめ、そして目を閉じて深く息を吐く。彼女の周りには、まるで異世界のような空気が漂い、目に見えぬ力が充満している。その力が、今、部屋の中に張り詰めていく。
「ヘルメスは、ギリシャ神話におけるゼウスの使者、伝令役として知られる神。しかしその力を、あなたがのぞみ様に与えたとは……」
ふわりがその神話の中で語られたヘルメスの名を口にすると、マムはゆっくりとその意味を噛みしめるように頷く。
「はい。ヘルメスの能力は、のぞみ様がニヒルに襲われた際に発動されました。のぞみ様の意思が、ゆう様に伝わり――」
「そして、ゆうはその力を最大限にし、ヘーラーの力を発動させた。」
ふわりが静かに言葉を続けた。
「それにより、地震が起こった。まさに天を揺るがすほどの力。ニヒルを打ち砕くために必要な力。」
「その通りです。」
マムの表情には安堵の色が見える。彼女は何かを成し遂げたことを感じているのだろうが、その静けさの中に潜む深い思いは、計り知れない。
ふわりは一歩、ジロームの横に進み、ベッドに横たわる裁判長を見下ろす。彼女の瞳には冷徹な光が宿っているが、それでもどこか哀れみを帯びているようにも見える。
ふわりは、部屋を見渡しながら静かに言葉を続けた。
「ヘルメスの力が、すべての運命を変える。これから先、どう転ぶかは誰にもわからない。」
その言葉を最後に、ふわりは再び何も言わずに姿を消す。まるで初めからここにいなかったかのように、彼女は闇の中に溶け込んで消えていった。
部屋の温度が戻り、静寂が再びジロームの寝息と共に支配する。
マムはゆっくりとその場に立ち、無言で一礼をする。そして、再びその暗闇の中で、何かを待ちながら、静かな心でその時を過ごすのだった。




