34. 拒絶の光──運命が軋む刻
アデン国 パール城 ニヒルの部屋 亥の刻(夜10時頃)
城内は静寂に包まれていた。窓の外には月が高く昇り、薄い雲がかかっている。夜の風がカーテンをわずかに揺らし、冷たい空気が部屋を満たしていた。
のぞみは鏡台の前に座ったまま、じっと鏡越しに自分の顔を見つめている。
蒼白な頬。指先に力を込めると、震えそうになるのが分かった。
背後には、豪奢な寝台が二つ並べられている。
一つは彼女のもの。もう一つは、婚約者とされるニヒルのものだった。
二つのベッドの間には、わずかに空間が空けられている。
——交わってはならない。
アデン国の法では、婚約から婚姻の儀、そして初夜の儀までは、婚約者同士の交わりは禁じられている。
しかし——
この男がそんな法を気にするとは思えない。
ニヒルは大きな椅子に深く腰掛け、足を組みながら、ゆったりとした仕草でグラスを指先で転がしていた。
その中にワインはない。
今夜は、ワインを飲んでいなかった。
前々日は泥酔し、昨夜は暗殺未遂の騒ぎで帰ってこなかった。
だが、今夜は違う。
今日は何もなかった。
のぞみは、喉を鳴らし、静かに息を吸った。
銀のカラフェに満たされたワインが、鏡台のそばに置かれている。
赤黒い液体が、揺らめく蝋燭の光を映し、不吉なほど艶めかしく輝いていた。
彼が酔わなければ、どうなるか分からない。
のぞみは、ゆっくりと振り返ると、できるだけ自然な声で言った。
「ワインを召し上がらないのですか?」
ニヒルは薄く笑った。
黄金色の瞳がのぞみを映す。
「今夜は飲みたくない」
のぞみの胸が詰まった。
だが、引き下がるわけにはいかない。
震えそうな手を隠しながら、ワインのカラフェを手に取った。
「……では、少しだけでも。良い香りですよ」
「お前は飲まないのか?」
ニヒルが問い返した。
のぞみはわずかに口を引き結ぶと、首を横に振った。
「私は……飲みません」
「では、なぜそんなに勧める?」
その声は柔らかいのに、鋭い刃のようにのぞみの胸に刺さる。
「……それは……」
「それは?」
のぞみは言葉を失った。
ニヒルはゆっくりと立ち上がった。
その動きに合わせ、部屋の空気が張り詰める。
「のぞみ、お前は分かっているのか?」
「……何のことですか」
ニヒルは一歩、のぞみに近づいた。
「分からないのか?——お前がここへ来てから、ずっとお預けをされているのだ」
黄金色の瞳がギラリと光る。
のぞみの背筋が凍りついた。
一瞬、息が詰まる。
この男は、飢えている。
その瞳は獲物を狙う獣のものだった。
のぞみは、椅子の肘掛けを握りしめた。
心臓の鼓動が耳の奥で大きく響く。
「お前が——」
ニヒルが手を伸ばす。
「……怯えている顔も、また美しいな」
のぞみは、無意識のうちに後ずさった。
しかし、後ろにはもう壁しかなかった。
のぞみの喉が引きつった。
背筋に冷たい汗が流れる。
黄金色の瞳がじっと彼女を射抜いていた。
獲物を追い詰める獣のように、ニヒルはゆっくりと近づいてくる。
のぞみの後ろには、ニヒルのベッド。
じりじりと後退しながらも、足元が危うくなり、ベッドの縁に腰を下ろしてしまった。
逃げられない。
「……っ」
指が震える。
だが、ここで屈するわけにはいかない。
のぞみは、隠し持っていた分厚い書物を手に取ると、ニヒルの目の前に突きつけた。
「何人たりとも、婚約から初夜を迎えるまでは、交わりを持つべからず!」
アデン国法典。
王族すらも従わねばならぬ、この国の絶対法則。
これを突きつければ、ニヒルも退くはず——
しかし——
「……フッ」
ニヒルの口元が歪む。
——笑っている。
のぞみの手から、法典が無造作に奪い取られた。
「お前は、この俺に法を説くのか?」
ニヒルは、書物を指先で軽く弾くと、そのまま傍らの剣を手に取った。
シュン——ッ!
鋭い音が部屋に響く。
法典は、一瞬にして真っ二つに両断された。
「私は良いのだ……」
その言葉は、絶対的な権力を持つ者のものだった。
のぞみの血の気が引く。
紙片が床に散らばる様を、ただ呆然と見つめた。
駄目だ、この男は、最初から法など眼中にない。
ゆっくりと、ニヒルがにじり寄る。
のぞみの背中はすでにベッドに押し付けられていた。
逃げ場はない。
ニヒルの手が、ゆっくりと伸びる。
「……っ!」
顎を摘まれた。
強くはない。
だが、まるで品定めをするような仕草に、のぞみの体は硬直する。
その瞬間——
バシッ!
のぞみはその手を振り払った。
「触らないで!」
だが、後退した拍子に——
ベッドの上に転がってしまった。
「……フフッ、良い反応だ」
ニヒルは愉しげに微笑む。
「我が子孫を残せるのは、のぞみ——お前だけなのだからな」
——運命。
のぞみとゆうが、このアデン国に連れてこられた理由。
それは、この時代に、ニヒルの血を継げる正室も側室も存在せず、唯一、時空を超えたのぞみだけが、その運命を背負うことになったから。
「……そんなもの、私は——!」
のぞみの叫びは、涙に滲んでいた。
「ゆう君!!」
その瞬間——
バチバチッ!!
頭頂部から、青白い光が走る。
まるで稲妻が迸るように、空間を裂く音が響き渡った。
ニヒルが驚いたように足を止める。
のぞみ自身も、何が起こったのか分からなかった。
しかし、確かに——何かが覚醒しつつあった。




