31. 潜入の庭──揺れる心と迫る刻
アデン国 パール城 中庭 午の刻
澄み渡る青空の下、パール城の中庭には貴族の婦人たちが集まり、優雅なお茶会の時間を楽しんでいた。中庭の美しい芝生の上には、繊細な刺繍が施されたテーブルクロスが敷かれ、その上に並ぶのは色とりどりの菓子と、銀製のティーセット。貴族たちは上品に笑いさざめきながら、それぞれの会話に花を咲かせていた。
この同じ場所で、わずか三日前には、姉弟の禁断の恋が裁かれた。二日前には、一騎討ち戦で荒れ狂った大男ラスジが巨大なハンマーで地面を抉り、芝生には無数の穴が刻まれた。そして昨日、ヘイラーの嫉妬の力を受けたゆうが、ジロームを馬ごと吹き飛ばした。そんな激動の時間が刻まれたはずのこの庭も、今は何事もなかったかのように、平穏そのもの。美しい花々が咲き誇り、優雅な旋律が奏でられる場へと姿を変えていた。
そして、その優雅な光景の中に、ゆうは紛れ込んでいた。
——貴族の婦人として。
ふわりによって変身させられたゆうは、絹のドレスを纏い、繊細な羽飾りのついた帽子をかぶっていた。視界の端で揺れる髪はふわりとした栗色の巻き毛になり、かすかに甘い香りを纏っている。腕を組めば、まるで昔からこの場にいる貴族の令嬢のように見えるはず……そう、見える「はず」だった。
しかし、ゆうの心臓は爆発しそうなほどに高鳴っていた。
「……これ、バレないよな……?」
落ち着け、自分。何もなかったように振る舞え。
そう思いながら、ゆうは慎重に振る舞っていたが——
「あなた……見慣れない顔ですわね」
隣にいた貴族の婦人が、ふと顔を覗き込んできた。
「!」
ヤバい!!
ゆうは一瞬で思考が凍りついた。何も考えていなかった。貴族たちが顔見知り同士なのは当然だ。そこへ突然、見たこともない婦人が現れれば、怪しまれるのも当然。
「え、あ……そ、そうですの……?」
自分でもわかる、ぎこちない返しだった。婦人の視線が鋭くなる。
「お名前を伺っても?」
しまった!名前!?何も考えてない!!!
一瞬の沈黙。婦人の眉がわずかにひそめられる。焦りで口の中がカラカラになりながら、ゆうはなんとか振り絞った。
「……ト、トキュー……ですの」
「トキュー……?」
婦人が不審そうに繰り返した。すでに疑念の色が濃くなっている。
「どちらの家柄の方ですの?」
「え?」
何家ってどういうこと!?
そうか、日本なら「徳川家」「織田家」みたいなものか。いや、でもアデン国の貴族の家柄なんて知らない!どうしよう、どうしよう、何かそれっぽいものを……!
「ク……カイン家ですの」
「クカイン家?」
婦人が眉を寄せる。ゆうは必死に、それらしい説明を考えた。
「ええ……あの、クカイン家は……えっと、祖国では古くから香料を扱う商家として名を馳せまして……近年、ええ、そう、王国の貿易に尽力しておりますのよ」
婦人はますます怪訝な顔をしたが、香料商家という響きがそれらしく聞こえたのか、ひとまず納得したようだった。
「まぁ、そうでしたの……初めてお会いしましたわね」
ゆうはホッとしたが、次の瞬間——
「ところで、おばさんのお名前は?」
つい、普段のゆうの口調で聞いてしまった。
「……?今、何と?」
婦人の目が鋭くなる。
「……あっ……」
しまった!慌てて言葉を直す。
「お、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
婦人はしばらくゆうを観察した後、やや慎重な口調で答えた。
「私はチョルポ家のモンイー」
「まあ、モンイー様……素敵な名ですこと……」
ゆうは必死で話を合わせ、モンイーはひとまず疑いを和らげたようだった。
その時——
演奏が始まった。
楽師たちが楽器を奏で、中庭に美しい旋律が流れる。
そして——
警護の女性衛兵に伴われて、王族が入場する。
ゆうは思わず目を凝らした。
——のぞみさん!?
そこには、王族の衣装を纏ったのぞみがいた。
優雅なドレスを纏い、しなやかな仕草で歩く彼女は、まさしくアデン国の貴き存在のように見えた。
ゆうの胸が高鳴る。
のぞみさん……!
しかし、ここで目立ってはいけない。今は、ただの貴族の婦人「トキュー」。
ゆうは必死で動揺を抑えながら、のぞみの姿をじっと見つめた——。
ゆうの左には、落ち着いた雰囲気のチョルポ家のモンイー。右には、目元のホクロが印象的なジ=メハテ家のカーハ。二人とも王宮付きの名門貴族であり、当然ながら格式を重んじる女性たちだった。
その正面、少し離れた位置に王族席が設けられている。そこに、のぞみと従者のヒメン、数名の高等貴族の姿があった。ニヒルはいない。貴族婦人の集まりだから当然なのだが、ゆうにとってはそれどころではなかった。
のぞみの席が遠い――。
(どうにかして、近づかないと……!)
うかつに立ち上がり、王族席へ向かおうものなら、警備の騎士たちに取り押さえられるのは目に見えている。時間もない。未の刻が終わる頃、つまりあと数時間後には、ふわりの魔法が解けてしまう。解けた瞬間、正体が露見すれば即刻捕えられるだろう。
焦りを抑えるように、小さな手鏡をそっと取り出し、自分の顔を確認する。
……まだ変化はない。貴族の婦人の姿を保っている。
「トキュー様?」
ふいに声をかけられ、ゆうはビクリと肩を揺らした。隣のモンイーが、上品に微笑みながら話しかけていた。
「お顔の色が優れませんわ。やはり、あのような婚姻の話は、私たち婦人にとっても感慨深いものでございますわね」
「え、あ……そ、そう……ですね……」
なんとか言葉を絞り出したものの、声が震え、妙に間の抜けた答えになってしまう。モンイーとカーハがちらりと互いを見やるが、すぐに会話を続けた。
「ニヒル様と王女様のご婚姻。まことに喜ばしきことですわ」
「ええ。私たちの国にとっても、重要な婚姻ですものね」
(いや……僕たちには耐えられないんだけど……)
ゆうは、カップに手を伸ばし、紅茶をひとくち飲む。落ち着け、落ち着け……! だが、動揺のせいか、カップを持つ手が微妙に震え、スプーンがカチャリと音を立てた。
(くそっ、貴族の婦人って、こんなに優雅に座ってるだけで大変なのか!?)
だが、ゆうがどんなに焦っていようとも、お茶会は淡々と進む。やがて、場の空気が変わった。王族席の高等貴族たちがひと際優雅な所作でカップを置き、のぞみに視線を向ける。
――のぞみが立ち上がったのだ。
王女のスピーチ
静寂が広がる中、のぞみは優雅に一礼し、朗々と語り始めた。
「このたび、ニヒル殿との婚姻の儀を迎えることとなりました」
その声は落ち着いているが、ゆうには分かる。心の奥底では、彼女がどれほどこの婚姻を望んでいないか を。
「この婚姻は、アデン国の未来を照らすものであり、私はその責務を全うする所存です。これまで支えてくださった皆様に、心より感謝申し上げます」
嫌だとは言えない。
望んでいないとは言えない。
だからこそ、彼女は「責務」という言葉を使ったのだ。
婦人たちは優雅に拍手を送る。だが―― モンイーとカーハの表情は、どこか物足りなさそうだった。
「……初夜の儀については、お話にならなかったのね」
モンイーが、スプーンを弄びながら呟く。ハーカが小さく頷いた。
「ええ、普通なら、その神聖なる誓いの夜についても触れるものではなくて? やはり、王女様もご緊張されているのかしら……」
「ふふ、まあ、当然でしょうね。どんな殿方であれ、初めての夜は……」
そこまで聞いたゆうの胸の奥で、何かが弾けた。
(ふざけるな……!)
のぞみは嫌がっている。望んでいない。そんな状況で、勝手に「神聖なる誓いの夜」などと語る彼女たちに、強烈な怒りと嫉妬が湧き上がった。
ふと、ゆうの背後から青白い光が滲む。
それは、女神ヘーラーの力の残滓――嫉妬の炎。
だが、ゆう自身は気づかない。何も知らないまま、拳を握りしめる。幸い、モンイーもカーハも青白い光に気づいてはいなかった。
(のぞみさんを……助け出さなきゃ……)
焦りが、ますます胸を締めつけた。
時間がない。
魔法が解ける前に、彼女を連れ出さなければ――!
ゆうはそっと息を吸い込み、視線をのぞみに向けた。
未の刻までに──必ず彼女を連れ出す。
その決意だけが、揺れる心を支えていた。




