30. 未の刻まで──ゆうの賭け
アデン国 パール城 ゆうの部屋 卯の刻
——婚姻の儀、初夜の儀まであと二日——
静まり返った部屋の中、ゆうは膝の上で拳を握りしめながら考え込んでいた。
明日には婚姻の儀、そして初夜の儀が行われる。
それまでに、絶対にのぞみを救い出し、現世へ帰らなければならない。
けれど、昨夜の暗殺未遂によって、ニヒルの警戒は格段に厳しくなった。
衛兵の巡回は増え、城の出入りには二重の確認が必要になったと聞く。
もう、暗殺で事を解決するのは不可能だ。
かといって、このまま指をくわえているわけにもいかない。
「……ニヒルに気づかれずに、のぞみさんを救い出す方法はないか……」
ゆうは額に手を当て、焦燥感に駆られながら策を練る。
そのとき、ふと顔を上げ、側に控えていたカオリに尋ねた。
「カオリ、今日は王族の行事で何か予定はあるか?」
カオリは一瞬考え、すぐに答える。
「本日は婦人のお茶会が予定されております」
「お茶会?」
「王族と貴族の婦人が集い、お茶を飲み、詩を詠むのです」
ゆうの瞳がかすかに輝いた。
そこに紛れ込めたら——
「……何とか、お茶会に入り込めないか?」
しかし、カオリはすぐに首を横に振る。
「それは……無理です。あくまで婦人だけの会ですので、男である以上、怪しまれるどころか、すぐに捕まります」
ゆうは歯を食いしばり、しばし黙り込む。
が、その沈黙はすぐに決意へと変わった。
「……なら、もう一度マムに会いに行くしかない」
———
パール城 ジロームの部屋前
薄暗い廊下を、ゆうは音を殺して進み、慎重にジロームの部屋の扉の前に立つ。
コン、コン——
小さくノックすると、すぐに扉の隙間から顔を覗かせたのは、ほのかに甘い香水の香りを纏う少女——マムだった。
「……ゆう様?」
マムは驚きながらも、すぐに周囲を警戒し、扉をそっと開ける。
「マム、力を貸してほしい」
「力……?」
ゆうは静かに頷く。
「今日のお茶会に紛れ込み、のぞみさんを助け出したい。何か方法はないか?」
マムは僅かに目を伏せ、考えるように唇を指でなぞる。
そして、ふと何かを思いついたように、彼女は静かに呪文を唱え始めた。
——と、その瞬間だった。
空気がわずかに揺らぎ、まるで霞のような靄がゆっくりと渦を巻き始める。
次第に靄はひとつの人影を形作り——
フワリ、と微笑みながら立つ人物が現れた。
「……ふわり!!」
ゆうは思わず声を上げた。
現世では「占いの館 ふわりとマム」の店主として知られるふわり。
しかし、ここアデン国では、彼女は黒魔術に精通した高位の術師であり、絶対的な力を持つ存在だった。
ふわりはじっとゆうを見つめる。
深い夜のような黒い衣装の奥から覗く瞳が、怪しく光った。
「……なるほどね」
「ふわり様、ゆう様は、のぞみ様を救いたいと」
マムが説明を終えると、ふわりは少しだけ微笑み、ゆうを前に立たせた。
「では、あなたの姿を変えましょう」
ふわりが黒い衣装の袖から手を伸ばし、そっとゆうの額に指を触れた。
その瞬間——
ゆうの体が淡い光に包まれる。
眩しさに思わず目を閉じ、次に目を開けたとき——
鏡に映る自分の姿は、まるで別人だった。
繊細なレースのドレスをまとい、滑らかな黒髪を背中まで流す貴族の婦人の姿。
頬は上品な紅が差され、指先には細やかな装飾が施されている。
「……すごい……」
驚きに息を呑むゆうに、ふわりは静かに言った。
「この魔術は、徐々に効き目が薄れていき、未の刻で解けます。 それまでに助け出しなさい」
ふわりの目が僅かに揺れたかと思うと、次の瞬間——
ふわりは霧のように消えていた。
マムは無言でゆうに小瓶を差し出した。
「……現世に戻るための蜜です。絶対に落とさないように」
「ありがとう、マム」
マムは小さく微笑むと、静かに扉を閉めた。
そして——
廊下に一人、貴族の婦人の姿になったゆうが、静かに立っていた。
廊下を進みながら、ゆうは自分の姿を映す窓の反射を何度も見た。
——貴族の婦人の姿。
滑らかな黒髪、繊細なレースをあしらったドレス、指先まで優雅な仕草を強いられるこの姿は、どう見ても本物の貴族の婦人そのものだった。
「……これで本当に、お茶会に潜り込めるかもしれない……」
そう考えながら、ゆうはそっと自室の扉を開ける。
——と、次の瞬間。
「っ……!?」
室内にいたカオリが、こちらを振り返るなり驚愕の表情を浮かべ、鋭い視線を向けた。
そして、彼女はすぐに厳しい声を発した。
「失礼ですが、こちらの部屋をお間違えでは?」
その態度は、まるで不審者を警戒する衛兵のようだった。
当然だった。
貴族の婦人の姿をした誰かが、ノックもせずに部屋に入ってきたのだから。
「ち、違う!カオリ、僕だよ!」
「は……?」
カオリの顔に困惑の色が浮かぶ。
「何を仰っているのですか?この部屋はゆう様のものです。貴女のような方が勝手に入ってきていい場所では——」
彼女はすぐに腰の短剣に手を添えた。
「待って!待ってくれ、カオリ!!」
ゆうは両手を広げて必死に訴えた。
しかし——
「……何故、私の名を?」
カオリの目が鋭く光る。
マズい、このままだと衛兵を呼ばれる!
「だから、僕なんだってば!!」
しかし、ゆうの声はすでに婦人のものに変えられており、必死に叫んでも、カオリにはただの貴族の婦人の悲鳴にしか聞こえない。
「……!失礼します!」
カオリはすぐさま扉に駆け寄り、衛兵を呼ぼうと手を伸ばす。
「待ってくれ!!!」
ゆうは焦り、瞬時に考えた。
カオリにしか知り得ないことを言うしかない——!
「カオリ!今朝の朝食!君が作ってくれた料理のことを話す!!」
扉に手をかけたカオリの動きが、一瞬止まる。
「……何?」
「……今朝、君は僕のために、焼きたての黒パンと、ハーブの香る白いスープを作ってくれた!黒パンには、僕が好きだと言ったハチミツを添えてくれたよね!?それに、スープの上には細かく刻んだパセリを浮かべていた!」
カオリの手が、ピクリと震える。
「……」
「それだけじゃない!スープを飲んだ僕が、『少し塩が足りない』って言ったら、君は塩壺を持ってきて、『お好みでどうぞ』って言ったよな!?」
「……!」
カオリの顔に驚きが広がる。
その表情は、ゆうの言葉を完全に理解した者のものだった。
彼女は震える声で、ゆうを見つめた。
「……ゆう……様?」
「やっと……わかってくれた……?」
ゆうは深く息を吐き、安堵の笑みを浮かべた。
カオリは、しばし言葉を失いながら、目の前の婦人をまじまじと見つめる。
「……そんな、馬鹿な……でも、確かに……その朝食のことを知っているのは……」
カオリは混乱しながらも、一つ息を飲み、改めて問うた。
「本当に、ゆう様なのですね……?」
「そうだよ。僕だ」
ようやく納得したカオリは、わずかに肩を落とし、信じがたいものを見るような目でゆうを見た。
「……なぜ、このような姿に?」
「それは……マムのところへ行って、ふわりを呼んでもらったんだ」
「……ふわり様……」
カオリはその名を聞くと、一気に表情を引き締めた。
「ふわり様ならば……納得できます。確かに、あのお方の魔術であれば、このようなことも可能でしょう……」
そう言うと、カオリはすっと目を伏せ、ゆうの変わり果てた姿を受け入れるように静かに頷いた。
「……それで、ゆう様は、この姿のまま何をなさるおつもりですか?」
「お茶会に紛れ込むつもりだ」
「お茶会……本当に?」
「そう。君が教えてくれたお茶会だ。そこなら、のぞみさんに近づける」
カオリは少し考え、すぐに答える。
「お茶会は、午の刻から未の刻までです」
「未の刻……」
ゆうはその言葉を聞いた瞬間、背筋が凍るような感覚を覚えた。
——ちょうど、魔法の効き目がなくなる時間だ。
もし、未の刻になる前にのぞみを救えなければ——
もし、お茶会の最中にこの魔法が解けてしまえば——
すべてが終わる。
「……今は、巳の刻か」
「はい」
時間がない。
ゆうは静かに婦人の姿のまま、作戦を練り始めた。
——あと少し。あと少しで、のぞみさんを助けられるかもしれない。
そして、ゆうは決意を新たに、目を閉じた——。
その瞳の奥には、
どんな絶望にも折れない、自分の恋人を救うための光だけが宿っていた。




