29. 揺れる灯り──のぞみ、孤夜に沈む
アデン国――パール城、ニヒルの部屋。亥の刻。
天蓋付きの寝台の中、薄く透ける布をまとったのぞみは、上体を起こしたまま静かに息をついていた。
灯りは落とされ、室内にはいくつかのランプの淡い光だけが揺れている。絹のカーテンがわずかに揺れるたび、影が歪み、壁の装飾が生き物のように形を変える。
静かなはずの夜。
だが、今夜は違う。
遠くから、かすかに響いてくるざわめき。
人の動く気配。
金属の触れ合う音。
いつもなら眠りに沈んでいるはずの城が、どこか落ち着きを失っている。
(……何かあった……?)
のぞみは耳を澄ませる。
しかし、はっきりとした内容までは分からない。
ただ、異様だということだけは伝わってくる。
ニヒルは、先ほど一度だけ血相を変えて部屋に戻ってきた。
扉を乱暴に開け、何も言わずに中へ入り、すぐにまた出て行った。
その顔。
あの男が見せる余裕も、嘲りも、一切なかった。
(……何だったの……あれ……)
そして、それきり戻ってこない。
時間だけが、じりじりと過ぎていく。
のぞみは無意識に、両手で薄布を胸元に引き寄せる。
(……帰ってこないで……)
心の中で、強く願う。
婚姻の儀まで、あと三日。
その夜に続く、初夜の儀。
アデン国の法は、婚約からその儀式までの間、男女の交わりを禁じている。
だが――
(あの男が……守るわけない)
唇を噛む。
昨夜は、ただ運が良かっただけだ。
酒に溺れ、意識を失っていたから、何も起きなかった。
偶然。
ただ、それだけ。
(今夜は……)
喉が、乾く。
(今夜こそ……)
想像が、勝手に広がる。
あの視線。
触れてくる手。
逃げ場のない、この部屋。
のぞみは小さく首を振る。
考えるな。
考えたら、壊れる。
それでも。
「……ゆう君……」
声が、漏れる。
自分でも気づかないほど小さな声。
だが、その一言で、胸の奥に押し込めていた感情が揺れる。
(助けて……)
誰にも届かない願い。
ここにはいない。
それは分かっている。
それでも、口に出さずにはいられない。
明日。
その一日も、やり過ごさなければならない。
そして、その先に待っているもの。
婚姻の儀。
そして――
初夜の儀。
逃げ場のない、法に守られた強制。
王国の慣わしの下による、ニヒルとの夫婦の交わり。
(……嫌……)
胸の奥から、拒絶が湧き上がる。
(絶対に……嫌……)
呼吸が浅くなる。
逃げ場はない。そして助けも来ない。
ここは、閉じられた世界。
(どうすればいいの……)
問いかけても、答えはない。
そのときふと、別の記憶がよぎる。
白い雪。
澄んだ空気。
静かな部屋。
栂池高原の和風ペンション――白雪の庵。
あの場所。
ゆうと過ごした時間。
初めて、心も体も預けた夜。
優しく触れてきた手。
戸惑いながらも、まっすぐに向けられた想い。
痛みすら、どこか温かさに包まれていた。
あのときの自分は、確かにここにいた。
今のように怯えてはいなかった。
ただ、信じていた。
目の前の人を。
その時間を。
(……ゆう君……)
胸が締めつけられる。
対照的すぎる現実。
あまりにも遠く、あまりにも違う。
ぽたり、と。
頬を伝うものがある。
気づいたときには、すでに遅い。
涙が、静かに溢れていた。
止めようとしても、止まらない。
「……ゆう君……」
もう一度、名を呼ぶ。
今度は、はっきりと。
誰もいない部屋に、かすかに響く。
返事はない。
ただ、揺れる灯りが、その声を飲み込むだけだった。
のぞみはそのまま、膝を抱き寄せるように身を丸める。
薄布の中で、かすかに震える。
外のざわめきは、まだ続いている。
何が起きているのかは分からない。
だが、確実に何かが動いている。
運命が、どこかで軋んでいる。
その中で、自分だけが取り残されているような感覚。
(……このまま……終わるの……?)
答えはない。
ただ、夜が深まっていく。
そして、のぞみはただ一人、静かに涙を流し続けている。
涙を拭うこともできず、ただ静かに目を閉じた。
その暗闇の奥で──
ゆうの名だけが、かすかな灯りのように揺れていた。




