26.静寂の中の一撃
アデン国――ピユウ山。
森を抜けて狩の一行へ戻ったゆうは、何事もなかったかのように馬の歩調を合わせ、列の後方へと自然に紛れ込むが、その胸の奥では先ほどの緊張がまだ消えきらず、わずかな乱れも命取りになるという感覚が、神経を細く張り詰めさせていた。
空はすでに西へ傾き、木々の隙間から差し込む光は橙に色を変えつつある。狩の終わりは近い。
(このまま終わる……そんなことは許されない)
視線を前方へ送ると、そこにはいつもの傲然とした姿を取り戻したニヒルがいた。先ほどまでの酒の影は完全に消え、衛兵たちに苛立ち混じりの指示を飛ばしながら、まるで自分こそがこの場の支配者であるかのように振る舞っている。
その姿に、ゆうはわずかに唇を引き結ぶ。
(隙がない……いや、あるはずだ)
そのとき、不意に森の奥から甲高い声が響いた。
「出たぞ!最後の大物だ!油断するな!」
あまりにも出来過ぎた声色――猟師の合図だった。
次の瞬間、空気が一変する。
ざわめきが止まり、全員の意識が一方向へと向く。
ニヒルがわずかに笑みを浮かべ、片手を上げて周囲を制する。
「手を出すな。これは私が仕留める」
有無を言わせぬ声音に、貴族たちは一歩退き、衛兵たちも進路を開ける。
やがて、低い唸りとともに茂みが大きく揺れ、土を蹴り上げる重い音が近づいてくる。
現れたのは、巨大な猪だった。
百キロを優に超える体躯。隆起した筋肉。黒光りする剛毛。猟師によって意図的に興奮させられているのか、その目は血走り、牙をむき出しにして一直線に突進してくる。
地面が震える。
その進路上に、ニヒルが立つ。
ゆうは後方から、その光景を息を詰めて見つめる。
(弓を使うはずだ……この距離なら確実に)
だがニヒルは弓に手をかけない。
代わりに、ゆっくりと剣を抜いた。
(なぜだ……?)
疑問が浮かぶ。
(あれは危険すぎる……)
しかし次の瞬間、その考えは凍りつく。
ニヒルの周囲の空気が、歪んだ。
目に見えない何かが、じわりと滲み出すように広がる。
重い。
淀んだ気配。
それはまるで、場の温度を一段下げるかのような不吉さを帯びていた。
貴族たちが息を呑む。
誰一人として声を発しない。
ただ、その異様な光景に目を奪われる。
ニヒルは低く笑い、わずかに腰を落とす。
「来い」
短い言葉。
そして、猪が目前まで迫った瞬間――
「ハァッ!!」
裂帛の気合。
その直後。
何が起きたのか、ゆうには視認できなかった。
ただ、剣が一閃したように見えた。
それだけだ。
次の瞬間には、猪の巨体が横にずれるように崩れ落ち、鈍い音を立てて地面に沈んでいた。
静寂。
誰も理解できない。
あまりにも一瞬の出来事。
やがて、誰かが恐る恐る手を叩く。
それをきっかけに、拍手が広がっていく。
「お見事……!」
「さすがニヒル様……!」
「剣の冴え、まさに神業……!」
称賛が渦を巻く。
ニヒルは当然だと言わんばかりに軽く顎を上げ、ゆっくりと剣を鞘に収めた。
その所作すら、誇示に満ちている。
ゆうはその一部始終を見つめながら、言葉を失っていた。
(……あれが……あいつの力……)
胸の奥に、冷たい感覚が広がる。
(あれと……戦うのか……僕は)
だが、その思考の最中――ふと、別の事実に気づく。
視線。
すべてが、ニヒルに集中している。
称賛と驚愕が交錯し、誰一人として周囲へ注意を払っていない。
そして当の本人は、両手を軽く広げ、歓声を受けることに陶酔している。
無防備。
決定的な隙。
(今だ……)
胸の奥で、何かが確定する。
(この機会を逃せば、もう終わる)
狩りは終わる。
チャンスも消える。
ゆうは静かに胸元へ手を差し入れ、布の内側に隠していた吹き矢を指先で探り当てる。
冷たい感触が、現実を引き戻す。
(ここで終わらせる)
呼吸を整える。
ゆっくりと確実に。
誰にも気づかれないよう、自然な動作で吹き矢を取り出す。
ニヒルはまだ笑っている。
完全に油断している。
(外すな……)
心拍が速まる。
だが、視線は揺れない。
狙うのは――左胸。
心臓。
ゆうは静かに吹き口を唇に当てる。
世界が、急に静まる。
音が遠のく。
ただ、標的だけが鮮明に浮かび上がる。
(いけ)
短く息を吐く。
フッ。
放たれた矢は、ほとんど音もなく空気を裂き、一直線に進む。
その軌跡が、ゆうには妙にゆっくりと見えた。
時間が引き延ばされたかのように。
そして――
コツン。
鈍い衝撃音。
命中。
ニヒルの左胸。
一瞬、すべてが止まる。
ゆうは即座に吹き矢を衣の中へと戻し、何事もなかったかのように手綱を握る。
ニヒルが、ゆっくりと視線を落とす。
自分の胸へ。
周囲の視線もまた、吸い寄せられるようにそこへ集中する。
刺さっている。
細い矢。
心臓の位置に。
沈黙。
そして、次の瞬間。
「曲者だ!!曲者だーッ!!」
絶叫が空気を裂く。
衛兵たちが一斉に動く。
ニヒルへと飛び込み、その身体を盾のように囲む。
「囲め!逃がすな!」
怒号。
混乱。
貴族たちが狼狽し、周囲を見回す。
衛兵たちは四方へと散り、存在するはずのない襲撃者を探し始める。
その混沌の中心から、ゆうは静かに距離を取る。
(気づくな……)
顔には何も出さず、ただ一人の貴族として、自然に馬を進める。
喧騒が背後で膨らむ。
だが振り返らない。
ただ、ゆっくりと。
確実にその場を離れていく。
胸の奥には、確かな手応えと――取り返しのつかない一歩を踏み出したという、静かな震えが残っていた。




