22.揺れる刃──のぞみの決断
アデン国――パール城。
戌の刻。夜は深く沈み、城の空気は重く、静まり返っていた。
ニヒルの部屋。
豪奢という言葉では足りない。
壁には深紅の織物、金の縁取りが施された肖像画、天井には緻密な彫刻。ランプの橙色の灯りが、すべてをぬらりと照らしている。王族の権威と、長い歴史の重みが、空気そのものに染み付いていた。
――その中心で。
「……ぐぉおお……ぐぉ……」
場違いな音が、響いている。
ニヒルはベッドに仰向けに転がり、口をだらしなく開け、ワインの匂いを漂わせながら大いびきをかいていた。痩せた身体は骨張っているが、その寝相は品位の欠片もない。晩餐会で浴びるほど飲んだのだろう、靴すら脱ぎきらずに眠りこけている。
のぞみは、その姿を見下ろしていた。
――忌々しい。
胸の奥で、黒いものが蠢く。
この男が、今この国のすべてを握っている。
この男ひとりの命が、運命を左右する。
視線を外す。
吐き気を抑えるように、部屋の中へと目を巡らせた。
壁に掛けられた大きな額縁。
そこにはアデン国の家系図が描かれている。
古き王たちの名が連なり、枝分かれし、そして――
今に至る。
その先に記されている名は、ただひとつ。
ニヒル。
「……ひとりだけ……」
小さく、呟きが漏れる。
王位継承権を持つ者は、もはや彼しかいない。
つまり――
今、この瞬間に彼が消えれば、歴史は途絶える。
……いや、変わる。
そのときだった。
のぞみの視界の端に、何かが引っかかった。
――剣。
壁際に、さりげなく立てかけられている。
装飾過多ではない、小ぶりなものだ。儀礼用ではなく、実用の気配を帯びている。
のぞみは、ゆっくりと近づいて手を伸ばす。
……軽い。
自分でも、扱える。
むしろ、このサイズだからこそ――扱える。
刃の冷たさが、指先から伝わる。
「……これで……」
喉が、乾く。
頭の中に、ひとつの光景が浮かぶ。
この剣を抜いて。
あのベッドに近づいて。
無防備な胸に――突き立てる。
それだけで、終わる。
「……終わる……?」
ニヒルは、変わらず大いびきをかいている。
起きる気配など、微塵もない。
今なら確実にやれる。
「……やる?」
自分に問う。
手が、震える。
本当に?
自分が?
人を――殺す?
鼓動が、速くなる。
いや、速いなどというものではない。耳の奥で、ドクン、ドクンと暴れ回る。血が頭に上り、視界がわずかに揺れる。
――マムの小瓶。
――ゆう君。
ここを抜け出して、彼のもとへ。
そして、一緒に蜜を飲めば。
現世へ戻れる。
占いの館ふわりとマムへ。
――帰れる。
そのためには。
「……死んでもらうしかない……」
視線が、再びニヒルへと向かう。
剣を、握り直す。
カチャ。
小さな金属音。
「っ……!」
心臓が、跳ね上がる。
思わず息を止める。
ニヒルの様子を、凝視する。
「……ぐぉ……ぐぉ……」
……起きない。
だが、背中に冷たい汗が流れる。
失敗すれば――終わりだ。
自分の命だけじゃない。
ゆう君も。
……巻き込まれる。
「……慎重に……」
のぞみは、ゆっくりと剣を引いた。
刃が、鞘から少しずつ姿を現す。
擦れる音を、極限まで殺すように。
一寸ずつ。
呼吸すら、音にならぬように。
そのとき。
「……ん……」
ニヒルが、寝返りを打った。
「!!」
全身が、跳ね上がりそうになる。
悲鳴が喉までせり上がるのを、歯を食いしばって押し殺す。
動くな、止まれ。
……動くな。
ニヒルは、再び静かになった。
「……は……っ……」
肺に、空気が戻る。
だが、その空気すら、刃物のように冷たい。
のぞみは、足を一歩、踏み出した。
ベッドへ。
一歩、また一歩。
距離が縮まるたびに、心臓が破裂しそうになる。
――近い。
手を伸ばせば届く距離。
ニヒルの胸が、上下している。
その鼓動の場所が、はっきりとわかる。
「……ここだ……」
剣を、両手で握る。
頭上へ持ち上げる。
腕が、重い。
だが、持ち上がる。
刃が、ランプの光を受けて、鈍く輝く。
――今。
この瞬間に、振り下ろせば。
すべてが――終わる。
鼓動が、限界を超える。
時間が、引き伸ばされたように遅くなる。
そのとき、刃に、灯りが反射した。
キラリ。
その光が、鏡に映る。
もう一度、キラリ。
それが――のぞみの目に、飛び込んできた。
「……っ!」
脳裏に、別の光景が閃く。
書物のページ。
何度も読み返した物語。
三国志演義。
――曹操。
董卓を討とうとして。
失敗。
原因。
(……剣の光……)
同じだ。
今の、この状況。
(……バレる……)
ぞくり、と悪寒が走る。
その瞬間、さらに別の光景が浮かぶ。
捕らえられる自分。
暗い牢。
逃げ場のない空間。
そして――ガイメン。
あの、おぞましい獣に徹底的に凌辱される“屈辱の三日間”。
(……いや……)
さらに、ゆうが鎖で繋がれ、鞭で打たれ、奴隷として扱われる姿。
強制労働。
自由を奪われる日々。
(……ダメ……)
腕が、震える。
剣が揺れる。
(こんなの……絶対ダメ……)
曹操は、馬で逃げた。
だが、自分は違う。
ここは城の中。
敵だらけ。
逃げ場など、どこにもない。
それどころか。
自分だけでは済まない。
「……ゆう君……」
彼の顔が、浮かぶ。
――殺される。
自分の選択で彼の命が消える。
「……ダメ……」
腕が震え、剣が、わずかに揺れる。
そしてゆっくりと。
……ゆっくりと。
のぞみは、剣を下ろした。
鞘へと、戻す。
音を立てぬように。
細心の注意で。
カチ……。
収まったその瞬間、全身の力が抜けた。
「……はぁ……っ……」
息が、漏れる。
膝が、わずかに震える。
元の場所へ、剣を戻す。
何事もなかったかのように。
――何も、していない。
ただ、見ただけ。
ただ、それだけ。
そのとき。
「……ん……」
再び、ニヒルが寝返りを打った。
「……っ!」
のぞみは肩を跳ねさせ、思わず後ずさる。
だが――
「……ぐぉ……」
また、いびき。
……起きない。
静寂が戻る。
だが、さっきまでの静けさとは違う。
そこには、張り詰めた緊張の残骸が、確かに漂っていた。
のぞみは、ニヒルを見つめた。
――あと一歩で、帰れてたかもしれない。
唇を、強く噛む。
――でも、見つかって殺されていたかもしれない
決断は、先送りされた。
だが、逃げたわけではない。
ただ――
“その時”ではなかった。
ランプの灯りが、揺れる。
その中で、のぞみの影もまた、小さく揺れていた。




