21.癒しの手──ゆうの内に眠るもの
アデン国――パール城、ゆうの部屋。戌の刻。
戦いの余熱がまだ空気の奥に残っているかのように、部屋の中は静まり返っているにもかかわらず、どこか張り詰めた気配に満ちていた。
ゆうは重厚な椅子に深く腰掛け、背もたれに体重を預けながら荒い呼吸を繰り返しており、その肩は大きく上下し、額から流れ落ちた汗が顎先でぽたりと落ちるたびに、戦いの激しさを物語っていた。
「……はぁ……っ……」
息を整えようとしても、肺にまだ戦場の空気が残っているかのように落ち着かない。
その傍らには、静かに控えるカオリの姿があった。
「ゆう様」
落ち着いた声で呼びかけながらも、その瞳には明確な疑問と関心が宿っている。
「先ほどの……あの炎は、一体どのようなものでございましょうか」
ゆうはゆっくりと顔を上げ、まだ完全には戻らない呼吸の合間に答える。
「……炎……」
「最初、ゆう様は、馬に乗るのさえやっとでした。それが突然青い炎がゆう様を包み、一瞬にしてゆう様は戦士のようになったのです」
「……戦士……」
「ジローム様とゆう様は、互角に戦われました。そして、ゆう様が大きく声を上げられたと同時に、全身を包んでいた青い光が紅蓮の赤へと変わりました」
カオリは淡々と事実を述べながらも、その異常さを理解しているがゆえに、言葉の端にわずかな緊張を滲ませる。
「……分からない」
ゆうは短く首を振るが、その仕草には困惑が色濃く表れている。
「気づいたら……勝手に出てた」
「それだけではございません」
カオリは一歩踏み込み、さらに言葉を重ねる。
「ゆう様が剣を振り下ろされた瞬間、ジローム様は馬ごと吹き飛ばされましたが、あの距離では、剣は届いておりません」
その指摘に、ゆうは無意識に自分の手を見る。
「……僕も……驚いてる」
あの瞬間、確かに手応えはあった。
だがそれは、剣が届いた感触ではなかった。
何か、念動のような力が放たれた。
「……ジローム裁判長は……大丈夫なのか?」
ふと浮かんだ疑問を口にすると、カオリは即座に答える。
「ご安心ください、気を失っているだけで、命に別状はございません」
「……そうか……」
その言葉に、ゆうはわずかに肩の力を抜く。
だが次の瞬間、全身に鈍い痛みが走った。
「……っ……」
思わず顔をしかめる。
腕、肩、背中、そして内側から軋むような違和感。
まるで無理やり引き伸ばされたかのような、身体そのものの悲鳴。
それは、マムから与えられた力――嫉妬の女神ヘーラーの魔力が、器であるゆうの身体に負荷をかけている証だった。
「ゆう様」
カオリはすぐにその異変に気づき、静かに近づく。
「お身体に無理が生じております、こちらへお横になってください」
ベッドへと視線を促され、ゆうはわずかにためらいを見せる。
「……え?……」
自身をベッドに促すかのようなカオリの視線に、ゆうは躊躇していた。
しかしアデン国では、戦いを終えた戦士の身体を従者が癒すことが当然とされている。
つまり――
「失礼いたします」
カオリはためらいを待たず、ゆうの甲冑へと手をかける。
カチャ、と金具が外れる音が響き、重みが一つずつ取り除かれていく。
「……ちょ、ちょっと……」
「ご安心ください、すぐに楽になります」
淡々とした口調だが、手つきには一切の迷いがない。
肩当てが外れ、胸当てが外れ、金属の冷たさが消えるたびに、逆に肌に触れる空気がやけに意識される。
「……っ……」
思わず息が詰まる。
カオリの指が、腕に触れる。
それだけで、鼓動が跳ねる。
「ベッドへ」
促されるまま、ゆうは観念したように横たわる。
柔らかな寝台が身体を受け止めると同時に、カオリの手が肩に添えられ、軽く押さえ込まれる。
「……っ」
「力を抜いてください」
静かな声。
だが逃げ場はない。
「……うん……」
ゆうはぎこちなく応じる。
次の瞬間、カオリの指が肩の筋を正確に捉え、ゆっくりと圧をかける。
「……っ……!」
鋭い痛みが走るが、それはすぐに解けるように消え、代わりにじんわりとした軽さが広がっていく。
「張りが強く出ております」
「……分かるの?……」
「はい」
そのまま背中へ、腕へと手が滑る。
押し、緩め、整える。
まるで身体の構造を知り尽くしているかのような的確さで、痛みの芯を一つずつ取り除いていく。
「……すごい……」
思わず漏れる。
「恐れ入ります」
しかしその手は止まらない。
触れられるたびに、身体は軽くなるのに、なぜか意識はそこへ集中してしまう。
(……近い……)
距離。
温もり。
わずかな呼吸の気配。
戦いの緊張とはまったく別の理由で、心臓が落ち着かない。
「ゆう様、少々力が入っております」
「……あ……ごめん……」
「……ふふ」
かすかな笑みが混じる。
その柔らかさが、さらに鼓動を乱す。
やがて。
「これで、整いました」
カオリの手が離れる。
途端に、空気が戻る。
身体は驚くほど軽く、先ほどまでの痛みが嘘のように消えていた。
「……ありがとう、カオリ」
ゆうはゆっくりと起き上がり、素直に礼を述べる。
カオリは一礼する。
「お役に立てて光栄でございます」
それだけを告げると、静かに後退する。
残された静寂の中で、ゆうはしばらく動かずにいたが、やがて服を手に取り、ゆっくりと身につけ始める。
ふと、鏡に映る自分の顔が目に入る。
「……なんで……」
わずかに赤い。
戦いの熱か、それとも――
「……あれがマムの力……」
小さく呟く。
あの炎の正体も、自分の中で何が起きているのかも、まだ何ひとつ掴めていない。
ただ一つだけ確かなのは、あの瞬間に自分の内側で何かが目覚め、それが確実に自分を変え始めているという事実だけだった。




