20.秘密の通路──のぞみ、帰還
アデン国 パール城 広間の返し扉の内側
扉の向こうでは歓声と怒号が混ざり合い、空気そのものが震えているかのようだったが、その内側にいるのぞみとマムの周囲だけは、張り詰めた静寂に包まれていた。
のぞみは差し出された小瓶を一度だけ強く見つめたあと、ゆっくりと視線を上げ、決意を帯びた瞳でマムを見据える。
「……私、ゆう君と一緒に帰りたい。でも……これを飲むなら、二人で同時に飲まないと。だって10分しか効き目がないんでしょ?」
マムは静かに頷く。
「はい、その通りにございます」
のぞみは唇を噛み、ほんの一瞬だけ迷いを見せたあと、はっきりと口にする。
「だから……力を貸して。ゆう君と会うにはどうすればいいか、教えてほしい」
その言葉に、マムはすぐには答えず、ほんのわずかに目を伏せて思案するような沈黙を落とすが、やがて何かを決めたように顔を上げる。
と、次の瞬間、
ボゥッ——
ゆらり、と揺れるそれは炎のようでありながら熱を持たず、むしろ冷たい光として空間を満たしていく。
彼女の頭部から青白い光が広がった。それは燃え上がる炎のようでもあり、月明かりのような優しい輝きでもあった。
「……!」
のぞみは思わず息を呑む。マムは無言のまま一歩前へ進み、のぞみの顔を両手で包み込んだ。
「……え?」
次の瞬間——ひんやりとした額がそっと触れる。のぞみの心臓が、大きく跳ねた。
「っ……!」
淡い光が、のぞみの額へと吸い込まれていく。まるで水が砂に染み込むように、優しく、しかし確実に彼女の中へと消えていった。
「マム……今のは……?」
「きっと、のぞみ様を助けてくれます。」
マムの声は穏やかだった。のぞみは彼女を見つめたまま、無意識に唇を噛む。何がどうなるのかは分からない。それでも、マムの言葉には不思議な説得力があった。
——信じよう。
だが、そのとき、のぞみはある問題に気づいた。
「……ニヒルは、もう私が逃げたと思って、衛兵たちに捜索させている。」
捕まれば、確実に投獄される。そうなれば、ゆうと一緒に帰るどころではなくなる。
「何かいい方法はない?」
のぞみの問いに、マムは小さく首を傾げた後、微笑んだ。
「私が通ってきた通路を使えば、のぞみ様は何事もなかったかのように元の席に戻ることができます。」
——王族席!
そうだ。自分は「トイレのために中座したことになっている」。もし先に席に戻ることができれば、ニヒルの思い違いだったことにできる——!
「それだ……!それしかない!」
しかし、返し扉の向こうから、不吉な声が響いた。
「探してひっ捕えろ!私は戻る!」
——ニヒルが戻る!?
のぞみの血の気が引いた。もし彼よりも先に席に戻れなければ——全てが終わる。
「のぞみ様、こちらです!」
マムが急かすように手を引く。のぞみは反射的に駆け出した。
石畳の床を踏みしめる足音が、通路にこだまする。息が苦しい。けれど、止まるわけにはいかない。
(お願い……間に合って!!)
出口は、すぐそこだ——!
————————————
その頃、ニヒルは、苛立ちを押し殺しながらも、早足で王族席へと向かっていた。
ーー逃げられた。
悔しさが喉の奥に絡みつき、舌打ちしそうになるのを辛うじて堪える。
一体、どういうことだ?
冷静に考えれば、中座する際に従者を従わせるべきだった。
のぞみを一人にしたのが失策だったなどと、今さら思い知る羽目になるとは。
ーー自分としたことが。
こんなことになるのなら、昨夜のうちに法を破ってでも手をつけておくべきだった。
アデン国の掟では、いかなる身分の者でも、婚約から婚姻までの間、男女が交わることは固く禁じられている。
だが、王族である自分にとって法など……意志ひとつでどうとでもなるはずだったのだ。
そうしていれば、のぞみはもう自分のものになり、今のこの騒ぎなど起こりようもなかった。
ーー見つけ出したら、徹底的に味わってやる。
ニヒルの脳裏に、鮮明にその光景が浮かぶ。
恐怖に染まるのぞみの顔、逃げ場のない状況に絶望する様、そして……
それを楽しげに見下ろす、自分の姿。
喉の奥で低い笑いが漏れそうになったが、すぐに噛み殺した。
今はそれよりも先に、王族席に戻らねばならない。
廊下に並ぶ貴族たちは、ニヒルの鬼のような形相を目にし、怯えたように視線を逸らした。
誰一人、口を開こうとはしない。
いや、それどころか、気配すらも消し去るように、ただ静かに頭を垂れる。
ニヒルはそのまま歩を速めた。
王族席の扉が見えてくる。
息が上がる。
足音が石畳に鋭く響く。
扉に手をかけた瞬間ーー
ドンッ!!!
勢いよく、扉を開いた。
重厚な扉が、激しい衝撃とともに吹き飛び舞い上がる埃と割れた木片が空中に散る。
眩い光が差し込む。
目が焼かれそうなほどの強烈な白光。
その中から、燃え上がるような怒気をまとい、ニヒルが姿を現した。
そして、王族席を見たニヒルの目に飛び込んできたのはーー
「……っ!!」
ニヒルの全身が一瞬にして凍りつく。
一瞬、思考が途切れた。
何かの見間違いかと疑いたくなるほど、そこにいるのは あまりにも自然に席に戻ったのぞみ だった。
ーーなぜだ!?
衛兵たちに城内を探させた。
婦人用の厠も余すところなく調べさせた。
それなのに、どこにもいなかったはずののぞみが、まるで 最初からここにいたかのように 座っている。
信じられない。
ニヒルは驚愕の表情のまま、のぞみに近づく。
「……どこへ行っていた?」
すると、のぞみは静かに顔を上げ、まっすぐニヒルを見た。
そして、わずかに微笑みさえ浮かべながら こう答えた。
「ですから、私の口から言わせないでくださいと言ったではありませんか……」
ニヒルの眉がピクリと動く。
ーー確かに、あの時そう言った。
だが、どうやってこの場に戻った?
衛兵が見落としたとでも?
……いや、バカな。
子供でも見つけられるはずの場所を、訓練された兵が見落とすなどあり得ない。
だが、それはもはや問題ではない。
のぞみは、自ら戻ってきたのだ。
ーーならば、それでいい。
ニヒルの口元がゆっくりと歪む。
今晩は、たっぷりと味わってやるとしよう。
そう思いながら、ニヒルはのぞみを覗き込んだ。
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のぞみ視点
のぞみは、マムの背中を追い、暗く細い秘密の通路を必死に駆けていた。
ドレスの裾が邪魔になり、何度も足に絡まる。
乱暴に捲り上げ、それでも呼吸を整える暇もなく走る。
息が上がる。
ーーもう少し。
通路の突き当たりまで来た時、そこには 壁に取り付けられた蝋燭 が揺らめいていた。
マムがその上にある扉を押すと、静かに木の扉が開く。
「のぞみ様、こちらから。」
マムは落ち着いた声でそう言った。
のぞみは梯子を上る。
ーーどこに出るの……?
梯子を登りきり、そっと顔を出す。
そこは 王族席の後方 だった。
ーー誰も……気づいていない?
慎重に、それでいて急ぎながら席に戻る。
間に合ったーー
ーーその時だった。
ドンッ!!!!
突如、背後で 凄まじい破裂音 が響いた。
のぞみの全身が凍りつく。
振り向くまでもなく、わかる。
ーーニヒルが戻ってきた。
のぞみの姿を認めた瞬間、ニヒルの表情が 驚愕と疑念に染まる。
「どこへ行っていた?」
低く、抑えた声。
のぞみは震える心を必死に押さえながら、あくまで冷静にーー そう見えるように ーー答えた。
「ですから、私の口から言わせないでくださいと言ったではありませんか……」
ニヒルの目が細まる。
じっと見つめられる。
視線が鋭く突き刺さる。
ーー心臓が、バクバク鳴っている。
ニヒルが さらに一歩、近づく。
のぞみを覗き込むように、じっとその顔を見つめる。
息が上がっているのを悟られないよう、のぞみは必死に息を殺す。
だが、走ってきたばかりの身体は正直だった。
頭皮から滲み出た汗が、一筋、こめかみを伝い落ちる。
それは、幸運にも ニヒルの逆側 だった。
ーーまだ、バレていない。
(お願い、早く前を向いて……!)
のぞみは心の中で必死に祈る。
そして、ついにーー
ニヒルは、ゆっくりと一騎打ち戦の広場へ視線を戻した。
のぞみは 表面上は平静を装ったまま、しかし顔には大粒の汗が滲んでいた。
ニヒルは前を向いたまま、それに気づくことはなかったーー。




