10.ゆうの決意ーージロームの部屋へ
アデン国 パール城 晩餐会
カオリに導かれ、ゆうは重厚な扉をくぐった。そこには、煌びやかなシャンデリアが天井から吊り下げられ、壁一面に豪奢なタペストリーが掛けられている広大な晩餐会場が広がっていた。高い天井には美しいフレスコ画が描かれ、金と深紅の装飾が施された柱が堂々と並んでいる。
「ここが、アデン国の王族と貴族が集う晩餐会の会場です」
カオリが静かに囁く。ゆうの身を包むのは、今まで着たことのない格式高い晩餐会用の衣装だった。
深い漆黒のベストとジャケットには金糸の刺繍が施され、胸元には装飾的なフリルのシャツ。肩にはアデン国の紋章が描かれた金の飾りがつけられ、足元にはしっかりと磨かれた黒革のブーツ。腰には細工の施された銀の装飾帯が巻かれ、まるで王宮の使者のような威厳を感じさせる装いだった。
テーブルの上には、豪華な料理が惜しげもなく並べられている。
大皿には、香ばしく焼かれた野生の鹿肉のローストが並び、甘酸っぱいベリーソースがたっぷりと添えられている。黄金色に焼き上げられたパンはバターの香りを放ち、クリームをふんだんに使ったポタージュが銀の器に湯気を立てていた。貴族たちは、大理石の皿に盛られた珍しい果実や、蜂蜜漬けのナッツ、スパイスが効いた羊肉のシチューを楽しんでいる。
「アデン国の晩餐会では、食事には細かい作法がございます。パンは直接手で千切らず、ナイフを使って一口大に切ります。スープは音を立てずに飲み、肉は左手のフォークで押さえてから、ゆっくりとナイフを入れてください」
カオリが丁寧に説明しながら、ゆうの皿に料理を取り分ける。
ふと、場内が静まり、中央の壇上に王が立ち上がった。
「諸君、今宵の晩餐に集いし貴族たちよ」
王ガウバーの低く響く声が、広間に厳かに響く。
「我が息子、ニヒルの婚姻の儀が五日後に執り行われることを、ここに報告する。アデン国にふさわしい婚姻となることを、皆も祝ってくれ」
一斉に拍手が巻き起こるが、ゆうの心は沈んだ。
「そして…先日の裁判で裁かれたクリスは、奴隷の身分に落とされ、十年間、投獄の刑に処された。ヒーダは、今、屈辱の三日間の一日目を迎えている」
貴族たちがどよめく。ゆうの脳裏に、獣のような体格をした執行人ガイメンが、ヒーダが幽閉された石の扉を開け、暗い部屋の中へと入っていく光景がよぎった。
今頃、ヒーダはどんな目に遭っているのか。想像するだけで、背筋が凍る。もしも、この世界でのぞみとの関係が発覚したら…彼女もヒーダと同じ目に…。
恐怖に胸が締め付けられる。
そのとき、ゆうの視線が王族席に向かう。
一段高い場所に座るニヒルが、優雅にナイフとフォークを操りながら食事をしている。その隣りには──
のぞみさん!
彼女はうつむき、表情は沈んでいる。ニヒルの隣に座ることが受け入れられないのか。
(のぞみさん、こっちだ! 僕はここにいる!)
ゆうは必死に目配せするが、距離が遠すぎて、のぞみに伝わる様子はない。
そのとき──ほのかに漂う香りに、ゆうはハッとした。
この匂い…どこかで嗅いだことがある…。そうだ、占いの館ふわりとマムで、マムの後ろを歩いたときに嗅いだものと同じだ。
ということは──
ゆうは周囲を見回した。すると、マントを纏った小柄な人物が、ゆっくりと会場の端を歩いていくのが目に入った。
あの後ろ姿…マムじゃないか!?
確かめたい。しかし、晩餐会の最中で、勝手に席を立つことは許されない。
ゆうは拳を握りしめた。
(マムがここにいるなら、何か助けになってくれるかも…?)
のぞみを救うための手がかりが、すぐそこにあるかもしれない。
だが今は、動けない。
ゆうは歯を食いしばりながら、沈黙を守るしかない。
視線は、マント姿の小柄な人物を追っていた。
人物は静かに晩餐会場を横切り、一人の貴族のもとへ向かう。――その男を見た瞬間、ゆうの胸に緊張が走った。
(あれは……日中の裁判で、クリスとヒーダに判決を下した裁判長ジローム……!)
ジロームは淡々とした口調で極刑を言い渡し、冷酷な態度を崩さなかった男だ。そして彼の傍らで、先ほどのマントの人物が慎ましく配膳をしている。
(……ということは、あの人物はジロームの従者? つまり、ジロームの周辺を監視すれば、マムに接触できる……?)
ゆうは無意識に拳を握る。
今ここで動くわけにはいかない。だが、晩餐会が終われば――。
ゆうは心の中で決断を下した。
晩餐会が終わり、ゆうはカオリとともに自室へと戻った。
静まり返った廊下には、遠くで燭台の炎が揺れる音だけが響く。部屋に入ると、カオリは扉を閉め、ゆうの上着を整えながら静かに言った。
「お疲れさまでした。晩餐会、無事に終えられましたね」
しかし、ゆうの頭にはすでに別のことでいっぱいだった。
「カオリ、ジロームを知ってるか?」
カオリは動きを止めた。数秒の沈黙の後、ゆっくりと口を開く。
「……存じております。ですが、どうしてそのようなことを?」
ゆうは迷いなく答える。
「ジロームに近づきたい。ジロームの従者が、マムかもしれない」
その瞬間、カオリの表情が微かに強張った。
「……やめた方がよろしいかと」
「なぜ?」
カオリは静かに息を整えた後、淡々と説明を始める。
「ジローム様は、裁判長の権限を絶対的に持つ貴族です。彼の機嫌ひとつで、罪の重さが変わることもございます。不審な行動を取れば、疑いを持たれ、捕らえられる可能性があります」
ゆうはすぐに言い返した。
「それでも、僕はマムの力が必要なんだ」
カオリは眉を寄せる。
「……なぜ、そこまで?」
ゆうは、少しの迷いもなく、カオリの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「マムの力を借りて、ニヒルとのぞみさんの婚姻を阻止したい」
カオリの手が、微かに震えた。
「……それは……さらに危険です。万が一、それが露見すれば……必ず、死罪となります」
「分かってる。でも、婚姻を阻止できなければ、それこそ死んだも同然だ」
カオリはゆうを見つめ、しばらく言葉を発しなかった。慎重に、慎重に言葉を選んでいるようだった。そして、数秒後、彼女はふと鋭く目を細めた。
「……もしかして、ゆう様はのぞみ様と恋仲なのですか?」
ゆうの心臓が大きく跳ねた。
カオリの声は淡々としているが、その奥には強い警戒と緊張が滲んでいた。
「姉弟であるにもかかわらず……?」
ゆうは、一度大きく息を吸った。
「……そうだ」
カオリの顔が、サッと血の気を失った。
「ゆう様、それがどれほどの罪か……分かっておられるのですか?」
「もちろん、分かってる。僕たちの関係が発覚すれば、僕は奴隷にされ、のぞみさんは……」
ゆうの脳裏に、ヒーダが幽閉された暗い石の部屋の光景が浮かんだ。
彼女が今、どれほどの屈辱に耐えているかを想像すると、恐怖で体が震えそうになる。しかし、のぞみを見捨てる選択肢はなかった。
「それでも、僕はのぞみさんを取り戻す。そして、彼女を連れて、この国を出る。僕たちの国、ホウコーへ帰る」
カオリは深く息を吐いた。彼女の表情は、恐怖と混乱に揺れていたが、それでもどこかでゆうの覚悟を理解したようだった。
やがて、彼女は静かに、一呼吸おいて、言った。
「……分かりました」
ゆうは驚いてカオリを見つめた。
カオリは真剣な表情のまま、はっきりと続けた。
「私も……ゆう様をお支えします」
ゆうの胸に熱いものが込み上げる。
「ありがとう、カオリ……!」
カオリはすっと背筋を伸ばし、落ち着いた声で言った。
「ジローム様のお部屋の場所を、お教えいたします。西棟の最上階、中央の赤い扉がそうです。ただし……決して不用意な行動はなさらないでください」
ゆうは頷いた。
静かな決意を胸に、ゆうはそっと部屋の扉を開けた。
誰にも気づかれぬよう、ジロームの部屋へと向かうために――。




