第99話 怖い客
四十五日目、午後六時十一分。
「だから、先に並んでたって言ってんだろ」
声が店内を切った。
直人が顔を上げる。
カウンター前に男が二人いた。
一人は三十代くらい。
もう一人は白髪交じり。
三十代の男が半歩前へ出る。
「俺が先だ」
「横から入っただろ」
白髪の男が返す。
秩序はレジの前に立っていた。
「順番にご案内いたします」
「その順番の話してんだよ」
◇
午後六時十二分。
三十代の男が舌打ちした。
「こっちは朝から何も食ってねえんだよ」
「俺だって同じだ」
「嘘つけ」
「何が嘘だ」
距離が縮まる。
直人は立った。
昨日、ガラス越しにゾンビを見たときとは違う。
扉はない。
ガラスもない。
同じ店内にいる。
◇
「お客様」
秩序が言った。
「安全な距離を保ってお待ちください」
三十代の男が秩序を見る。
「うるせえな」
手がレジ台を叩いた。
乾いた音が響く。
高校生が椅子から立ちかけた。
森田が腕を出して止める。
「待て」
「でも」
「今行くな」
◇
午後六時十三分。
白髪の男が三十代の男の肩を押した。
強くはない。
だが、押された男の顔が変わった。
「触んな」
今度は胸を押し返す。
白髪の男がよろけ、椅子にぶつかった。
美咲が子どもを抱き上げる。
由佳が母を奥へ動かす。
黒瀬は出口ではなく、二人の手元を見た。
刃物は見えない。
それでも近づかなかった。
◇
秩序がカウンターから出た。
「店内での危険な行為はおやめください」
三十代の男が振り向く。
「じゃあどっちが先か決めろよ!」
「確認できる範囲で順番にご案内します」
「だからどっちだ!」
秩序は二人の間へは入らない。
腕を掴まない。
押さえつけない。
「距離を取ってください」
同じ言葉を繰り返した。
◇
午後六時十四分。
白髪の男が言った。
「もういい。こいつ先で」
三十代の男が睨む。
「最初からそうしろよ」
その言い方で、白髪の男がまた前へ出た。
「何だと」
森田が低く言う。
「離れろ」
二人には届かなかった。
直人の腹が冷たくなる。
昨日のゾンビは、扉を開けなければ入ってこなかった。
今は、誰かが何かを間違えればすぐ殴れる距離だった。
◇
午後六時十五分。
三十代の男が拳を握った。
秩序が一歩、横へ動く。
二人の正面ではなく、少し外れた位置。
「危険な行為が続く場合、店内の安全確保を優先します」
「何すんだよ」
「安全確保に必要な対応を行います」
「だから何だよ、それ」
秩序は答えなかった。
三十代の男も、拳を振らなかった。
数秒、誰も動かなかった。
◇
午後六時十六分。
子どもが泣いた。
大きな声ではなかった。
美咲の肩へ顔を埋めている。
白髪の男がそちらを見る。
三十代の男も見る。
拳がほどけた。
「……先、いいよ」
白髪の男が言った。
「いらねえよ」
「じゃあ俺が買う」
「勝手にしろ」
三十代の男は列から離れた。
店の隅へ行く。
誰も追わなかった。
◇
午後六時二十分。
白髪の男が注文した。
バーガー一つ。
ポテト一つ。
ドリンクは水。
秩序がいつもの声で確認する。
「店内でお召し上がりですか?」
「……うん」
「かしこまりました」
三十代の男は壁際に座っている。
顔を伏せていた。
直人はまだ座れなかった。
◇
午後六時三十八分。
高校生が小声で言う。
「昨日より怖かった」
直人は頷いた。
「俺も」
「ゾンビより?」
「今は」
高校生は昨日のノートを開いた。
《恐怖については答えず、業務判断で返答》
その下へ、何か書こうとして止めた。
「これは記録しなくていいか」
「何を」
「怖かったってこと」
直人は少し考える。
「それは事実じゃない?」
高校生は書いた。
《人間同士の衝突。自分は怖かった。》
◇
午後七時二分。
三十代の男がカウンターへ戻った。
列はいなかった。
「バーガー」
「単品でよろしいですか?」
「うん」
「かしこまりました」
秩序は責めなかった。
さっきの態度について話さない。
謝罪も求めない。
三十代の男も謝らなかった。
注文だけが進んだ。
◇
午後七時十九分。
入口のガラスには、昨日の血が薄く残っていた。
その前を三十代の男が通る。
外を見る。
すぐに目を逸らす。
店内では、白髪の男が一人で食べている。
二人はもう話さなかった。
直人は昨日と今日を並べて考えた。
外のものは、扉の向こうに置ける。
鍵もかけられる。
近づかなければいい。
けれど、店内にいる人間はそうはいかない。
腹が減る。
疲れる。
苛立つ。
同じ場所で暮らす。
誰が先だったか程度のことで、拳を握る。
クルーが強いかどうかは、今日の問題を解かなかった。
殴る前に止められたのは、力でねじ伏せたからではない。
誰かが勝ったからでもない。
子どもが泣いて、二人が止まった。
それだけだった。
カウンターから秩序の声がする。
「お次のお客様どうぞー」
直人は、昨日より少し遠く感じる入口を見た。




