第98話 怖くないんですか
四十四日目、午前十時十二分。
入口のガラス戸へ、何かがぶつかった。
鈍い音だった。
高校生が振り向く。
外に一人いる。
男だったもの。
片方の頬が裂け、シャツの胸元が黒く固まっている。
ガラスへ額を押しつけた。
口が開く。
歯が見える。
高校生は椅子を半歩引いた。
◇
もう一度、音がした。
ごつん。
ガラスは割れない。
秩序がカウンターから顔を上げた。
入口を見る。
「店外にお客様がいらっしゃいます」
高校生が秩序を見る。
「いや、客じゃないでしょ」
「入店可能な状態ではありませんね」
「そうじゃなくて」
外の男が爪を立てた。
ガラスを引っ掻く。
◇
午前十時十四分。
直人たちも集まってきた。
美咲は子どもを奥へ下げる。
由佳が入口から距離を取る。
黒瀬は外の左右を確認した。
「一体だけ」
森田が言う。
「裏は?」
「さっき見た。いない」
外の男はまだガラスへ身体を押しつけている。
秩序は入口の前まで歩いた。
高校生が思わず言った。
「近いって」
秩序は扉のロックを確認する。
「施錠されています」
◇
午前十時十六分。
男の手がガラスを叩く。
秩序は離れない。
「怖くないんですか」
高校生が聞いた。
秩序が振り返る。
「何がでしょうか?」
「それ」
高校生が外を指す。
「ゾンビ」
秩序はもう一度、外を見る。
「現在、扉は施錠されています」
「だから、怖くないの?」
「入店できない状態ですので、店内営業に支障はありません」
高校生が黙った。
◇
午前十時十八分。
「もし開いたら?」
高校生が聞く。
秩序は扉を見る。
「安全に営業できない場合は、必要な対応を行います」
「怖いかどうか聞いてるんです」
「お客様の安全を確認することが優先です」
また、少しずれた。
昨日までと同じだった。
勤務時間を聞いたときと同じ。
秩序は、自分の状態ではなく、今の業務について答える。
◇
午前十時二十一分。
外の男が横へずれた。
ガラスに血の跡が残る。
隣の窓へ移る。
高校生の肩から少し力が抜けた。
直人はそれに気づいた。
「怖い?」
「普通に怖いですよ」
高校生が答える。
「慣れたと思ってたけど」
「俺も」
四十四日経っても、ガラス一枚向こうに来れば身体は先に反応する。
◇
午前十時二十七分。
秩序はカウンターへ戻った。
客が一人、注文を待っていた。
「お待たせいたしました」
声は変わらない。
「ご注文をどうぞ」
高校生がその背中を見る。
「ほんとに怖くないのかな」
直人が言う。
「分からない」
「顔も変わってなかった」
「顔に出ないだけかもしれない」
「心臓とか速くならないのかな」
「そもそも同じ身体かも分からない」
高校生はノートを取り出しかけて、やめた。
測れないものだった。
◇
午前十一時三分。
外の男はいなくなっていた。
ガラスには乾き始めた血が残っている。
クルーの一人が清掃道具を持ってきた。
店内側から汚れを確認する。
外側の血には手を出さない。
「外、拭かないんですか」
高校生が聞く。
「現在、店外での清掃は安全を確認できません」
今度の答えは、よく分かった。
「怖いからじゃなくて?」
「安全に実施できないためです」
◇
午後零時二十二分。
高校生はノートへ書いた。
《ゾンビ接近》
《扉の施錠確認》
《店内営業への支障なし》
《店外清掃は安全確認できず実施しない》
その下に、《怖がらない》と書きかけた。
止める。
消す。
代わりに書いた。
《恐怖については答えず、業務判断で返答》
直人が読む。
「それなら見たままだな」
「はい」
◇
午後三時四十八分。
入口の血はまだ残っていた。
客が来るたび、その横を通る。
人間側は何度か見る。
美咲は子どもが入口へ近づかないようにする。
高校生も、ときどき外を確認する。
秩序は注文を取る。
血の跡があっても、声は同じだった。
「セットになさいますか?」
直人には、それが勇敢なのかどうか分からなかった。
怖くないのかもしれない。
怖くても業務を優先しているのかもしれない。
人間と同じ意味で恐怖を持つのかさえ、分からない。
ただ一つ分かった。
ゾンビを前にしても、秩序が選ぶ言葉は「怖い」「怖くない」ではなかった。
安全か。
入店できるか。
営業できるか。
対応が必要か。
それだけだった。
入口の向こうで、乾いた血が午後の光を鈍く返していた。




