第97話 変わらない制服
四十三日目、午前六時四十一分。
直人はシャツの袖をつまんだ。
糸が出ていた。
手首の少し上。
昨日までは気づかなかった。
引っ張ると長くなりそうで、そのままにする。
「また?」
由佳が言った。
「何が」
「服」
「これ?」
「肩も薄くなってるよ」
直人は自分では見えない場所を触った。
◇
午前七時三分。
店の隅に洗濯物が並んでいた。
靴下。
下着。
シャツ。
子どもの服。
干せる場所には限りがある。
何日も同じ服を着る人もいる。
洗えば乾くまで待つ。
洗いすぎれば傷む。
洗わなければ臭う。
四十三日も暮らせば、最初に着ていた服のままではいられない。
高校生のTシャツにも、小さな穴があった。
「これ、広がってきた」
指を入れて見せる。
「入れるなよ」
直人が言う。
「もう入るんですよ」
◇
午前七時二十二分。
カウンターに秩序がいた。
昨日と同じ制服。
少なくとも、直人にはそう見えた。
襟は白い。
袖口に黒ずみはない。
胸元に油染みもない。
高校生が隣へ来た。
「昨日、あそこ見ました?」
「どこ」
「袖」
「見てない」
「じゃあ、昨日と同じか分かんないですね」
「制服を替えてるかもしれないしな」
二人はそこで止めた。
◇
午前八時十七分。
美咲が子どものズボンを縫っていた。
膝が破れたらしい。
針を通す。
糸を引く。
子どもは隣でラッキーセットのおもちゃを動かしている。
「もう一本あるけど、そっちも膝薄いんだよね」
美咲が言う。
由佳が答える。
「子どもは早いよ」
「サイズも怪しくなってきた」
「四十三日だもんね」
子どもは話を聞かず、おもちゃを床に走らせた。
◇
午前九時二十八分。
秩序がポテトを袋へ入れていた。
袋の口を折る。
客へ渡す。
「お待たせいたしました」
高校生が少し近づいた。
「何見てるの?」
直人が聞く。
「汚れ」
「怪しい人みたいだぞ」
「分かってます」
秩序のエプロンには染みが見えない。
だが、朝に交換した可能性はある。
洗濯している可能性もある。
予備が何着あるかも知らない。
「これも分かんないですね」
高校生が言う。
◇
午前十時四十九分。
五十代の男が自分のズボンを見せた。
「ここ、もう駄目だ」
尻の横が擦れて薄くなっている。
「縫う?」
美咲が聞く。
「頼める?」
「糸あるうちは」
男はズボンを脱ぐわけにもいかず、上着を腰に巻いてトイレへ行った。
替えのズボンへ履き替えて戻る。
美咲が破れかけた部分を補強する。
店内に、衣服の寿命が見えるようになっていた。
◇
午後零時六分。
昼の注文が続く。
厨房から油の匂いが来る。
ポテトの塩。
ソース。
紙袋。
人間の服には、それが少しずつ移る。
直人は自分のシャツの胸元を嗅いだ。
「やめてくださいよ」
高校生が笑う。
「油くさい」
「俺もです」
カウンターを見る。
秩序の制服は、離れた場所からでは匂いまで分からない。
見た目だけなら、朝と変わっていなかった。
◇
午後二時二十三分。
高校生が注文のついでに聞いた。
「制服、何着持ってるんですか?」
秩序が答える。
「制服についてでしょうか?」
「はい」
「勤務中はこちらを着用しております」
「洗濯は?」
「衛生管理には十分注意しております」
「毎日替えてる?」
「清潔な状態で接客いたします」
高校生はポテトを受け取った。
「ありがとうございました」
「ありがとうございます」
また、聞いたことより接客に必要な答えだけが残った。
◇
午後四時五十一分。
直人は朝に見つけた糸を切った。
引っ張らず、ハサミで根元から。
由佳の靴下には補修跡がある。
美咲の子どものズボンには、新しい縫い目が増えた。
五十代の男のズボンにも当て布がついた。
高校生のTシャツの穴は、朝より少し広がっていた。
カウンターでは秩序が接客している。
制服は白い。
◇
午後七時十八分。
高校生が昨日のノートを開いた。
《交代 未観測》
その下へ新しく書く。
《制服の汚れ・摩耗 未観測》
直人が覗く。
「変わらない、って書かないんだ」
「替えてるかもしれないから」
「そうだな」
高校生は少し考えて、その下にもう一行足した。
《人間の服は変わった》
それなら確かだった。
四十三日前、ここへ来たときにはなかった穴。
ほつれ。
染み。
補修跡。
人間の身体と暮らしは、服の上に時間を残している。
秩序の制服に時間が残らないのか、それとも残る前に何かが行われているのか。
まだ分からない。
ただ、並べて見ると、一方にだけ四十三日が見えた。
カウンターの白い袖が、紙袋を客へ差し出した。




