第94話 休む客
四十日目、午前八時四十二分。
五十代の男は、何もしていなかった。
窓際の席に座っている。
コーヒーが一杯。
スマートフォンは充電中。
箱にも触れていない。
直人は何度か男を見た。
昨日なら、男の方から「仕事ありますか」と聞いていた。
今日は聞かない。
◇
午前九時十九分。
「具合悪いんですか」
高校生が聞いた。
男が顔を上げる。
「いや」
「じゃあ、眠い?」
「別に」
「何してるんですか」
男は少し考えた。
「何も」
高校生は「そうですか」と言って離れた。
五分後、また男を見た。
まだ何もしていなかった。
◇
午前十時三分。
由佳が母の薬を確認する。
美咲は子どもの髪を結び直す。
黒瀬は外へ出る人の荷物を確認している。
森田は箱の記録を一度だけ見て、すぐ離れた。
直人は昨日の紙をまとめていた。
誰も男へ仕事を頼まなかった。
それでも、何もしていない人が一人いるだけで、店内の動きが少し目についた。
◇
午前十時二十一分。
男が立った。
直人は反射的に見る。
男はトイレへ行った。
戻る。
また座る。
「ほんとに何もしないんだな」
黒瀬が小声で言った。
直人が聞く。
「駄目?」
「駄目とは言ってない」
「じゃあいいじゃん」
「なんか落ち着かないだけ」
直人も同じだった。
◇
午前十一時五分。
男がカウンターへ行く。
バーガーとポテトを注文した。
財布だけで払った。
箱は使わない。
トレーを持って戻ってくる。
「今日は金あるんだ」
森田が言った。
「昨日、知り合いに少し借りた」
「返すの?」
「いつか」
「そっか」
森田はそれ以上聞かなかった。
男はポテトを一本食べた。
◇
午前十一時三十八分。
子どものおもちゃが椅子の下へ転がった。
男の足元まで来る。
男が拾う。
子どもへ渡す。
「ありがと」
「はい」
それだけだった。
直人は時計を見る。
三秒くらい。
昨日なら「これは仕事か」と話になったかもしれない。
今日は誰も言わなかった。
◇
午後零時十四分。
男は食べ終わったトレーを返した。
また席へ戻る。
高校生が聞く。
「暇じゃないですか」
「暇だよ」
「何かしたくならない?」
「なる」
「じゃあ何でしないんですか」
男はカウンターを見る。
「昨日、いらない仕事作るなって言われただろ」
「言われましたね」
「だから、ないならないで座ってる」
「つらくないですか」
「ちょっとな」
◇
午後一時二分。
男はうとうとしていた。
腕を組み、顎が少し下がる。
眠った。
直人は最初、十分くらいだと思っていた。
二十分。
三十分。
誰も起こさない。
午後二時を過ぎても寝ていた。
◇
午後二時二十六分。
男が目を覚ました。
「寝てた?」
高校生が答える。
「一時間半くらい」
「そんなに?」
男が身体を伸ばす。
「なんか悪いな」
「何が?」
「昼間から寝て」
高校生は少し考えた。
「森田さんも寝てましたよ」
「森田さんは疲れてたからだろ」
「疲れてないと寝ちゃ駄目なんですか」
男は答えなかった。
◇
午後三時十一分。
カウンターには秩序がいた。
朝にもいた。
昼にもいた。
直人が見ていた範囲では、ずっと接客している。
厨房では別のクルーが動いている。
人間側は、眠る。
疲れていなくても座る。
暇なら何もしない。
少なくとも、今日はそうしていいことになった。
店員側は違った。
休む必要がないのか。
休んでいるところを見ていないだけなのか。
まだ分からない。
◇
午後四時三十七分。
男は窓の外を見ていた。
朝から、ほとんど何もしていない。
誰も追い出さなかった。
箱も減っていない。
必要な仕事も増えていない。
「明日は何かあるかな」
男が言う。
直人が答える。
「あるかもしれないし、ないかもしれない」
「なかったら?」
昨日なら困った質問だった。
直人は店内を見る。
「休めばいいんじゃない」
男は少し笑った。
「それも仕事?」
「仕事じゃない」
今度は、すぐ答えられた。
カウンターから声がする。
「次のお客様どうぞー」
男は座ったままだった。




